ショートYouTubeで、生前のいかりや長介氏の、強くなるということは痛みに鈍感になること、自分の痛みに鈍感になると他人の痛みにも鈍感になる、自分の弱さをみとめて弱い自分のままで、どう苦しむかが大事だ、という主旨の論調…あれほんと、都民のなかでもとりわけ恵まれた人間の考えだと思うんですよ。
強くなるということは〜自分の弱さをみとめて、まではフムフムそうだねまあそうだね、と受け取れます。
しかしそこから、弱い自分のままでどう苦しむか、なんてことを言うのが納得できません。
なぜなら強さは他人の弱さのぶん働くことで獲得できるからです。
強さは痛みに鈍感になるだけでは獲得できません。そのわざと鈍感になった状態で、他人の苦しみを肩代わりする…つまり、痛みをおして苦しむことで獲得できます。痛みに負けて苦しんでみてもそれは苦しむフリに過ぎません。痛んでいるだけです。
どれだけ恵まれても脂肪にして溜め込むか糞にして出すだけで、時間を強さに変える努力もなしに弱い自分のままに甘んじる選択は、ただたださらに恵んでくれという意味にしかなりません。
恵まれたなら、脂肪にせず動き、糞を少し我慢して筋肉に換え、以前はできなかった働きで、いまできずにいるひとの働きを担ってあげて、痛みをおして苦しまねばなりません。
つまり、自分の痛みに鈍感になると他人の痛みに鈍感になる、が決定的に暴論なんです。
そうなる傾向はあります。しかしそれだけではない。
なぜなら強いひとでなくては弱い人のもとに馳せ参じる移動はできず、弱い人のもとに馳せ参じることができなくては弱い人の痛みそのものを先ず知ることすらできないからです。
他人の痛みに鈍感でも、まだうすら感じ取っているなら、まったく痛んでいる他人の存在を知ることもなく痛みの程度ももちろん気にすることもなく生きてしまうよりはマシなんですよ。
つまり弱いまま、なんてのは、近寄ってくる他人の痛みに寄り添うことはどんどん得意になれても、離れている場所の他人の痛みに寄り添うことはどんどん不得手になっていくわけです。
強い人でも移動して疲れてしまえば、あるいは重労働して疲れてしまえば、自分は弱いからと移動しない人よりも弱くなることは充分にありえます。
強さを志向して弱くなること、弱さを志向して強くなることがありうる以上、基本的には強くなろうとして、自ら出向き、他人の痛みの存在をまず識る必要があります。
日本の漫画や特撮などのヒーローモノは、弱い者たちが複数で力を合わせて一体の怪物の暴虐に打ち勝つという構図を好みがちです。
たしかに違法行為する者というのは少なくいてくれないと制御が不可能になるから、その構図はまことリアルではあるんです。
しかしその構図にも短所はあります。強きをくじき弱きを助く…って、別に悪くもないはずの強き者までくじこうとしてしまう、冤罪事件をおこしてしまうリスクがあることです。
惡しき強きをくじき佳き弱きを助く。これが肝要です。
それすなわち、できるだけ精確に、そしてゆっくり時間をかけて、弱き者の心理も当事者として忘れないようにしながら、ひとりひとりが佳き強き者になろうとせねばならんといふことです。
そりゃ、ショートYouTubeにもおさまるようなパワーワードつかえばカッコつけやすいでしょうけど、強さ弱さなんてそんな短い時間で語れるもんじゃないんですよ。
出直して来なさい!いかりや長介!
(もう亡くなっていますが…)
こんにちは🙂
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