たとえば私の今の職場は監視カメラが数え切れないほど設置されている。

これ、何十年前には絶対に無かったものだ。

どこかの工場で従業員がストレス発散に異物を混ぜた例なんかを話され、その監視カメラに代表される警戒体制の説得力を語られたことはある。

さて、いったいその警戒は、どれほどの善意を尽くせばとかれるのだろうか。

監視カメラによるいわゆるアッセイ(圧政、圧制)は、どこかの名も知らぬたったひとりの犯罪者のために大手を振るようにして始まったらしい。ひとりの犯罪者ではなかったかもしれない。しかしひとりの犯罪者がいたから1台のカメラをつける、ではなかったはずだ。いうなればひとりの犯罪者がいたから10台の…100台のカメラをつける、だったはずだ。


ゴミ捨てに関しても前々から何度も言っている。

放火犯のせいでゴミ出しタイミングがやけに厳しくなった。短い時間帯に出さないといけなくなった。

これもいったいぜんたい、いつまでその窮屈さに従っていればいいというのだろう。誰もそれを論じているのをみたことがない。



田舎では自然と、これくらいまあいいよね、という基準がつくられる。

宮崎で政治家がシタミチを 90km/hで走ったという。これくらいいいよね、という基準がそうさせたろう。

田舎道でも実際は獣の飛び出しなどがありうるので、制限速度は守るほうが良いのだが、どうにも出して良い速度にしか思えない見通しの良さでこの制限速度表示なのか!?という道もあるのを、実際🚲九州3周して見てきた。

もっともっと各種、犯罪がもとになって新しくつくられた制約は、数値に厳密に注目して、善意善行の幾ばく尽くされたあかつきには、更新を検討され実行されねばならないはずだ。しかし、一度制約が既得権益になってしまうとその見直しをいやがる連中がいる。そもそも制約に真面目にとりあうこと、制約の必然について真面目に議論することもせず突っ走る人たちは少なくないのだから、当然ということもできるが。

議論されるべきなのである。

そのためには正直に、あそこは何km/hでいいはず、とか、あそこは何km/hでなくちゃいけない、とか、あそこのカメラは要る、とか、あそこのカメラは多すぎる、とかそういう声が各人から出てこなくてはならない。もしそういう声が違法行為の暴露として言いたくない程度の罪悪感でもあろうなら、そもそもそういう違法行為をするなと思う。議論材料を提案する気もない違法行為などするな、と。


たとえば監視カメラでいえば、光をしょっぴくと考えるべきである。

昔の人はカメラが出始めの頃、魂をとられ早死するなどと言って恐れるひとたちがいた。

私はその恐れる感性は、そうバカにしたものでないと思う。

いまでいえば電子カメラが主流である。

電子カメラは撮るのも再生するのも電気が必要となる。

監視カメラ1台が活きるのにいったいどれほどの電気が、エネルギーが必要になることか。

そのカメラに光が提供されなくてはならない。撮るのも再生するのもエネルギーを他所から必要とするカメラに情報として光を分けてあげることになる。その光も屋内であればまた他所からエネルギーを引っ張って明るさを確保しなくてはならない。

人間の脳内の認識速度はひとそれぞれだが、監視カメラ制は、ある一定のディレイがなくては仕事をしていないと決めつけてみる監視側の脳内の先走りをも生む。もともとが犯罪者の出現を受けて設置した犯罪者のためのカメラだから、労働者を犯罪者予備群としてみる感性がまとわりつく。せっかくのびのびとしっかり認識速度を発揮して仕事できる能力を持つ人も、監視されること、ディレイを要求されつづけることで遅延を余儀なくされることは、決して妄想ではない。充分にあり得ることだ。

そしてなにより、電気機械が場に増えることは、磁界が多数入り乱れることを意味する。電磁力の作用により、電気機械が場に増えれば増えるほど、しっかり働いて欲しいロボットなども誤作動を起こす確率を上げてしまうだろう。

非犯罪者が尽くして積み上げた善意善行をもって、犯罪者のために設置した制約を、昔の設置の無かった状態に戻す、少しずつでも戻す努力をしないなら、ヒトのみならず機械すらも壊れていきやすい。ヒトも機械も電気回路で動いてるからだ。電気回路で動くという意味では、ヒトも機械も同類だからだ。それは差別とかヒトへの冒涜とかでなくて、事実なのだ。目を背けてもなんにもならない真理なのだ。

既得権益にいる者たちが、その犯罪者によって授かったような利益を見直し、分散するなり断るなどしてまた善行を高評価するような時代の逆行もときに正転なのだと考えない限りは、世の中は正解ばかりを積み上げたつもりで電気回路の干渉しきりの、狂った不正解を積み上げつづけることになるだろう。

私は都市部の共産化をすればよいと言った。
では共産化がいやならば?
都市部、なんてものをつくらなければいい。
ただそれだけのことだ。
各人のパーソナルスペースを相互に尊重しあい、都市部、と呼べるものをどんどんつくらないようにすればいい。
そしてどこからが都市部といえて、どこからが都市部といわないですむのか、その数値の議論も必要だ。


ようするに、非犯罪者をあーだこーだ悪口で見下す暇があったら、犯罪者のせいで始まった制約をどれほどの善行の積み上げによって解除するかの見当をつけてほしいのである。

てめーのプライドのためにマウンティングしている暇など、この便利品があちこちに充満しているヨノナカにあるわけねーのだ。電磁力の相互作用による意図せぬ狂気は24時間休まず暗躍し、どれだけでも次の狂人や犯罪者の生産を狙っている。その向こうに、既得権益者たちをさらに肥え太らせるために────。



便利の代償は必ず支払わされる。

運動量保存則だ。

絡め取られつづけるカルマの網のなか、私達が最大限喜べるのはいつの時代もやはり、生命の誕生と健やかなる生育である。


他人をバカにしている場合じゃないんだ。
他人の合法なスピードを奪って出す違法なスピードにて悦に入っている場合じゃないんだよ。

もっと急げよ、人生を。








こんばんは🙂