ボクラは目覚めても夢を見ている。


世界中の人々が自分や自分たちを愛してくれているという夢を見ている。


ときどきその夢がさめるツラい出来事にあうけれど、それでも懲りずにその夢を見ることで生きていける。


その夢をみせてくれたひとに、お礼をしたくなるひともいる。そのお礼はその夢をみせたひとにとって、あるいは第三者にとっては思い込みがすぎる行き過ぎたお礼に見えることはきっとよくある。



だけどきっと、ひとまず平和ならそれでいいんだと思う。その平和がたとえどこかの非平和で成り立っていたとしても、ひとまずは、それでいいんだと思う。




もともとなにも恵まれなければ人は…生き物は死んでしまうものなんだ。

恵まれた量よりも自己研鑽しすぎても死んでしまうというのは、マッスル北村さんが体を張ってボクに告げたような教訓だ。

わりにあわず恵まれるひと、必死の思いでめぐむひと、ひとまずは、いていいんだと思う。本質がすれ違っていたとしても。


問題は、すれ違いが発覚したあとの衝撃を、どれだけ減らせるかだね。


それはきっと、そのひとまずの平和が、どこの非平和で成り立っているかをしっかり知ることで減らせるんゃと思う。



ひとまずの平和で生き抜いてひとまずのうちに世を去ってしまえばある意味勝ち組だけども。

それでいいのかどうかは遺された者たちが吟味する。


だから、生きているひとが別の生きているひとを批判するとき、じつはなんと、生きているひとを介して、ひとまずのうちに早世してしまったひとたちを批判しているんだとおもう。

みんな、死んだ人に対して表立って悪くいうのはそりゃ苦手だから。生きているひとを介して悪く言っているんだと思う。

そのとき、死んだ人の魂が天国行きなのか地獄行きなのかみたいなニュアンスになるのかな。宗教的には。




ひとがひとを批判するとき、すれ違ったり誤解があったりするのはそういうことなんだと思うのはどうだろう。まぁ、一呼吸おくためのコツとして。





言うてる自分ができるかもあやしいけど、まあ、コツのための1つの要素として……(笑)。












おはよう☀。



今日は午前中、なんも鍛錬系をできそうにないや。