知名度って、広く浅く知られる知名度もあるけど、

狭く深く知られる知名度もあるね。


別にテレビでよく知られているとかじゃなくても、つきあいがながいほど狭く深く知られる知名度があるとなりそうな話。



ただ、ボクはたとえば、長年、非暴力非服従を実家でやってきていたのに、その果てに殴り返すようになったのに。昔からすぐに殴り返す子供だったと勝手に片親に記憶されていたみたいに、狭く深く知られているはずの、ながいつきあいのはずなのに、日頃受けている過大なストレスと混同して、ずっと浅くしか知られていなかったなんてジツ例がある。


知名度って、このくらいあるはずだ、と思いこんでしまう、という逆の意味もあるね。知名予想度?


──とあるふたりの知名度は、4つあるということになるね。

あなたがわたしをこれくらい知っているはず。
わたしはあなたをこれくらい知っているはず。

これが、ふたりぶん(×2)あるってことだ。
こりゃぁいろいろ食い違うよね。




あなた自身が知らない可能性をわたしが知っている。
わたし自身が知らない可能性をあなたが知っている。

そういう未来指向も、ふたりぶんあると思えば、

マジで人間関係て、8パターンの取っ組み合いゃ。
たった2人でも8パターンの取っ組み合い。
不特定多数との言葉や表現のやり取りなんてなると、どれだけパターンが増えることか。



昔は 男らしさ女らしさうんぬん や 君主制家制度かんぬん が、その8パターンを4パターン以下や2パターン以下にしていたということゃな。それで昔はよかったというひとがいる。パターン対応が面倒くさいんだな。



多様性の完全肯定って、その8パターンの可能性をすべて否定しないことで、みんながしあわせになるはずの1パターンがあるはずだって探していくことは、完全肯定にはならない。もちろん、多様性を完全肯定する必要は無いとわたしは(わたしも?)考えるけども。




わたし自身のずれを煙に巻こうとしているって思われるかもしれないけど、上記は結構命がけで得ている観点や論調なんで、そうナメないでほしいな。

殴り返すの長年我慢していたのに、すぐ殴り返す子供だったって、なんやねん。

下手すりゃ殴り殺されとるぞ。















おはようございます🌞