今日、今夜は電気が止められて大変です。

いつもならやらない自動車だのみの動きをどたばたやって、3軒目のコンビニでひとまずスマホの充電レンタルに成功。送電再開手続も行った…が、2時間以内に再開するかな?真夜中だが…。




私は正社員的な収入の見込める身分というか、区分というか、ようするに社会の中での扱いになるまで、光熱費は紙による支払いをやろうと思っています。


低空飛行区で受けたストレスは、ほぼそれを受けていないひとに理解できるものではないし、受けていても お前のせいだ! をやってしまう人にも理解できることではありません。つまり、なかなか誰にも理解されにくいってこと。


理解されるが早いか、理解されなくてもいいからこっちの切実に示し続ける善の顔を信じてもらえるのが早いか、とにかく、まっとうな収入の入る生活になるまで、とても自動引き落としなんて支払い方をする気にはならないんですよ。過大なストレスを受けたひとの暗いオーラを、ストレスのない、そしてストレスを嫌うひとたちからは信用できないように、私もまた、こちらの不利をしっかり埋め合わせしようとしてくれないひとたちの明るいオーラを信用できないんですよ。




だから、ゲンカツギでもないけれど、わざと手間のかかる不便な紙の支払いをがんばっています。




こういう、わざと不便な線を選ぶ、ということを私はほかにもいろいろとやっています。

もうね。言ってみればそれが"あなたがた"のいう瞑想にあたるんですよ。すでに。


あなたがたが瞑想にかける時間の何倍もかけています。私の禅は静御禅ではありません。動禅です。動くことで忘れたり覚えたり、受け取ったり受け取らなかったりします。過大なストレスなど受けていない、それを知らないあなたがたとは価値観が真逆だと思ってくれてもいい。ほんとうは真逆ではないんだけど、いっそそのほうが理解は早いかもしれない。


過大なストレスを受け取るというより押し付けられ続けた、受け取りたくなくても身体にぶっかけられ続けた者は、瞑想をするとむしろ悪意が増幅します。やったことあるんですもん。本来の悪意が健全に顕在化するだけなんですよ。悪意といいますけど、正当防衛ですから。ぜんぜん、多勢に無勢に逆らう1個人の正当防衛。それを悪意と言ってあげるのはせめてもの私からの情けなんですよ。



だから私は具体的な行動あるのみなんです。

判断しない、なんてことが通用するのはあなたがたが恵まれて生きているからですよ?


たとえば、わたしが他人の死を厳かに喜ぶ、という意味がわかりますか?


一応空白あけて、考える余裕をつくりましょう。















































こたえは出ましたか?







わたしが他人の死を厳かに喜ぶのは、私自身が私の死を誰よりも望む本質をつねに抱えていて、しかしそれよりも先に亡くなった方々は、その死をもって私の死に安息を求める気持ちを、逆に言えば過大なストレスを理解したとみなせるからです。

もう少しわかりやすくいうと、他人の死に比して死んでいるも同然(動禅)のような私は、自分のなかにある生をほそぼそと認めることとなり、私の生は他者の尽力に拠るものとわかっているので、私は私の生を喜ばざるを得ないということです。


仏陀信仰はつきつめると過去の偉大な悟り開き者を信じること。過去をたいせつにする信仰です。

醒案信仰は逆に未来の偉大な悟り開き者を信じること。未来をたいせつにする信仰です。


向きが逆なんですよ。本質は同じなのに。

だから具体的行動も、言葉も、表だつものはすべて逆になる。

しかし本質は同じなので、ときに邂逅できるんです。




私からすれば瞑想のススメをされることは悪魔の誘惑に等しい。

瞑想は恵まれている人たち同士でススメあうとよろしい。

恵まれていない、まだ恵まれかたが不十分なひとにススメられるものではないですよ、瞑想は。



キレイゴトに旋律をあわせる。

それは本質を同じくしているので、理解できるし、同意できます。


ただ、あふれる悪意もとい正当防衛意は(略せば聖闘衣)やはり理解によってしか脱げない、おさまらない。


不便を理解することです。

瞑想と不便の二本立てでいきましょうや、この際。




恵まれているあなたがたがわざと不便を選べたとき、わたしも瞑想が選べるのです。













こんばんは🙂。
送電再開されました。