そもそも若者が出て行きたがる地方に中央の理屈は当てはまらない。

地方にとどまった私がプランデミックを見抜いたのだって、ヴァイラスの定義と確率計算とを自力でやったからであって、決して権威ある論文や権威あるひとたち、尖ったセンスのひとたちと酒を飲みながら喧嘩しながら生議論をしたからぢゃあない。

地方でいくつかの垣根を超えた優秀さを持とうとすれば孤独の道を行くべきなのは大前提。そもそも若者に去られてしまう地方にあって、若者に譲るものもなにもない。そもそも物質文明的には、どれだけ新しいものを高い金出して買ってもすぐに古いとされるのがゼニモウケのバックアップ地帯とみなされている地方。持っているものの新しさ古さは思考や価値観で語る。

思考や価値観でいえばつねに古くて新しいものなどいくらでもあり、古くも新しくもないのに今に合わないものもいくらでもある。思考や価値観を時間軸にきれいに並べられると信じているのは都会の人たちだけだろう。都会はそれでも通用する。全国から若者たちがつぎつぎと供給され、それに乗っかることをしやすいから。


でも地方でそれは通用しない。

新しい古い関係なく、通用するもの、許すべきもの、通せんぼすべきもの、本質に基づいて選別せねばならない。若くても収まりの良いところから動かない者は既に老害なのだ。若者はチャレンジしてあたりまえ。チャレンジして失敗して、まわりにラッキーな儲けをあたえてあたりまえ。その若者が、少子高齢化で少なくなっているうえに地方からは出ていくのだ。次世代に譲るもへったくれもない。次世代が居ないのだ。次世代になりに都会から充分に出てくる若者がいてその話はできることだ。


地方はつまり、そんなに甘くない。


都会の人たちが言葉多くあれこれ忙しなく、地方から集まった若者たちを踏み台にしつつ格差社会をつくってみせて、都会は甘くないとか嘯くよりも、地方は最初から甘くない。



SNSが無いころは、上記のような反論を滔々とできる機会は地方人には無かった。

いまはある。

あるからには、この機会つかわせてもらう。

当然、運営に表現の確率を統制されていることも知っている。

それでも表現しつづける。思考や価値観は時間軸では並べられないことを早くから知っていたぶん、表現する責務すらありうる。


いつまでもチャレンジャーでいたいと言っていた横綱曙。その凄さたるや。もちろん、曙のチャレンジの振れ幅は大きすぎて、現実的には負けてばかりになった。寿命すら縮めた。土俵を降りてからの彼の人生は成功とはいえない。それは挑戦であって、失敗とすらいえた。しかし彼はそれをやりたかったし、やったのだ。きっと彼が彼自身に負けたくなかったからだろう。私達は彼が彼自身に勝ったことを認めざるを得ない。


私は私で、私のおもう国内のパワーバランスのために活動する。


それが気に食わないのなら、どんどん中央から地方へ出ていくことだ。まだ出ぬひとたちにも出るよう呼びかけることだ。



成功法則の話については、それができてからまた聞きたい。










こんばんは🙂。