🔍。3Dカメラを検索してみました。


なるほど形としては左右二眼カメラはすでにあります。



しかしこれ、あくまでも考え方が、被写体のどこか1点に焦点を当てるという考え方なんですよね。




私の言っているのは、被写体と目を合わせる、被写体と目を合わせようとするという電子制御です。これは見た感じ、カメラで、すでにあるとは思えませんね。




つまり人の目というのはたしかに焦点を一点に当てようとはするものの、じつのところそれは前後の一線なのかもしれないし、現実的にいって、対面のひとと目を合わせようとするなかで周辺視野に入るものに危機のあるものがあればそちらに焦点がうつる、などの原則を持っています。


そばにひとがいないと言う場合には、物質に対して焦点1つを当てようとしつづけるかもしれませんが、それにしても自分とモノとの対比は続けるでしょう。



ヒトの2つある目は、つねにある程度連帯しつつも同時に感度をもって機能しています。




これをカメラワークに置き換えると、たとえば右と左に一人ずつ、二人存在している画を撮る場合、一眼カメラではどちらかに偏るか、その中間、宙空に焦点をあてて撮ることになります。


しかし私の言っているような、被写体の目と合わせようとする電子制御の場合、見合わせている二人ならば、カミテにいるひとの左目と、シモテにいるひとの右目にピントABをあわせたり、カミテのひとがぷいとさらにカミテにそっぽ向いてしまうときは、いったんそのひとの両目にピントABがあたったのち、シモテのひとの右目と、カミテのひとの右目にピントABが合うことになります。これが、私のいう立体感です。



ピントがひとつのままそのシーンをみても、ぷいとそっぽを向いたひとの感情はまだ大きなものとして伝わりません。


しかしそのカメラでとらえたなら、二人がならんでいる引いた画像にも関わらず、そっぽを向いたひとの感情が大きくつたわる可能性があるわけです。



そこに、絵でも口答えをする…絵ではないということを認めさせる迫力ができる可能性があります。


たしかに距離があって部屋にあるテレビの映し出したシーン。やはりこれは絵であって、絵でしかない、という限界はあるんです。しかし少なくとも、シモテのひとにとってはカミテのひとは絵ではなかったろうなということくらいは、推察することができるはずです。


いまのカメラのありかたでは。そしてそのカメラのありかたに一人暮らしで馴らされてしまっては。


芸能界は画面の向こうの別世界。


ある芸能人は所詮べつの芸能人にとっても絵でしかなく、人権などありはしない、侮蔑と切り離しの対象、と思ってしまうのではないでしょうか。





芸能人がだれも人権をもって活動し、さらにほかの人に対しても人権をもっていると思えて接することができるようになるには、上記、人と目を合わせようとする電子制御。有っていいと思いますよ。








まあ、上記を面倒くさいっていうんなら、一生誹謗中傷に苛まれてなさいなっていうのは、やはりそれも絵としてしかみていないジジツでしょう。




だから、まだ私は、たとえ返事がなくても最上もがサんに応援(アメブロふう投げ銭)は続けようと思っていますよ。


彼女の生き方なり考え方なりが、この考え方をしっかり言語化させてくれたと、私はみますからね。











もしかしたらこれを機に、私はブログブラウザの右に赤字で書いた、重度の身体障害、のようなものだとした顔の変形を、治めることができるのかもしれませんからね。


1つの目である私の父に、私が人間であること、私に人権があることを実感させるのは、倍以上の時間がかかる理屈でしょう?


私は44歳で、人生初の無期契約になったんですよ。


普通ってやつなら22歳でなるべきでしょう?


男系社会において、父性による認定をもらえないことがどれだけわかりにくい障害となるか。



私はさらに実子誘拐されているから、その問題と今度は、父親として向き合わねばならんのですよ。




ああ忙しい!!!!
















こんばんはw。