一発ギャグも丸腰での舞台表現も、不特定多数に存在を知られる本名乃至芸名でのメディア露出も。


すべて、あなたに危害を加える人間ではない、と自我を砕いてみせる行為である。


しかし、それに対して他我を砕く行為がある。


それが性風俗系統の行為だ。



貞操観念向きの倫理観の欠如したひとのいうことばに、減るもんじゃなし、というのがあろう。それは婚姻制度や貞操観念の観点からいえば、全然減るものがある行為なのだし、なんなら法律で禁じられているほど減るものが多いと広く認識されているにも関わらず、嘘を吐(つ)いてにせものの同情を引いて、オカネをせしめたいだけの行為に近い。



ある表現の型を独占するようにして営利活動を行いたい場合、その表現の型はそのひとのものであるという観客の認識を正しく著作権向きに従って獲得するべきだが、それら他我を砕く行為は特にその正しさからすればかけ離れている。



すでに自身で見つけて時系列で言って先に表現したはずのことを、真似と言われるのはニュアンスとしては冤罪だ。



また、他者の表現の型を奪ってしまった場合に、衆目がそれをオリジナルと見做してしまうのはありえたことだが、それは表現権の感性、思想、考え方を逸脱した違法性ある行為とみなす向きに行きたい。



衆目は、決して正義とは限らない。


衆目が犯罪を煽ることもあろう。


見守るひとに値する人間性をなんらかの道を通って獲得したひとには、衆目以上の正義をみることもしばしばあって構わない。



表現者は、衆目をもっと定義していくべきではないか?



かんたんにいうと、表現者が自身の表現に対して言ってほしい言葉、言ってほしくない言葉をリストアップしていうのである。そして、プライバシーポリシーの説明文を読ませるように、衆目の定義のアップリストを、クリックひとつでずらーっと読めるようにしておく。


そこに比率をつけるのもいい。



たとえば可愛いと言われたいとして、可愛い3回に対して、可愛くない1回は許せる、とか、凄くないと言われたいとして、凄い!1回に対して、凄くない5回はよしとするとか、そのような比率だ。




そもそもどうみてほしいかの定義もされていない表現を放射状に拡散されたものを目の当たりにさせられるほうも大変で、たとえばコンビニで女性のあられもない姿が店外にまでバーン!と複数並ぶ、いまでは抑制された外観がつい数年前までは当たり前にあったが、あれは表現権についてよくよく考える材料をあたえる出来事だったと見得る。




いまは電子文で校正推敲がとんでもなく便利な世の中であるから、今現在のプライバシーポリシーならぬ、表現観覧ポリシー…パフォーマンスヴィウイング…パフォウイングポリシーを更新し続けながら掲示することは、そんなに難しくないのではなかろうか。




大事なのはそのポリシーを読む読まないの自由度をも定義してかかるべきということだろう。自由のなかからうまれる新しい望ましい展開も、もちろん期待されるところだろうから。





そこまでやれば、言わなくてもわかるでしょ、の領域に自閉せずに済んで、考えもしなかった、の押し付けを極力減らすことが、みるものみられるもの同士、お互いやりやすくなるのではなかろうか。






時系列に従ってオリジナルを認めていく順番だけが 100%正義なのだとは私も思わないが、衆目を味方につければ違法を合法かのように押し通せるというやり方が正義だとはさすがに思わない。





あられもない女性のすがたであっても、開放感のなかあふれる笑顔をみてほしい、というのか、日頃節制してつくった私のスマートなクビレをみてほしい、というのかで、みるものに想起させる その先 が異なってくるはずだ。


みてほしいみかたの理想を定義もしていないで、そんなふうにみられるなんてショック、と愛想尽かすのは、ちょっと無理があるんじゃないか、ということだ。



カメラのレンズに、人体用に、凸部分を中心に据えていないものがあっても良いのではないかという気もする。



ひととひととは顔と顔、目と目と目と目をあわせてすがたかたちを識別するのがベストだとおもうが、凸部分が中心に1点のレンズばかりでは、そのベストはどれだけ望んでも実現されない。




レンズ磨きをインターンで体験したことがある。


↑このレンズへのないものねだりは到底難しい不可能にしか思えない作業だというのは知っている。




だとしたら、電子的な計算で、2つの目のカメラで撮影したデータを一枚絵にするように、基盤のほうでどうにかできないか。





そうしたら水着の女性の像とか、裸婦像とかももっと、健全な、望ましい見方ができるような気がする。







パフォウイングポリシーと、左右二眼カメラ電子計算出力基盤。



そのふたつが実現したら、もっともっと無用な誹謗中傷が世の中から減ると思う。




いまは、レンズの歪み以前に、1つの目でモノをみる遠隔情報によって、もう一つの目を瞑らされるストレスにさらされつづけた衆目が、たまったストレスで被写体に偏ったリアクション、すなわち復讐心を燃やしてもおかしくないシチュエーションのまま、勢いで突き進んでいる世の中になってしまっている。




私なんかは家庭の事情から1つの目の弊害というのは数多く、痛みすら知っており、そのため、写真や映像がカメラマンと被写体そのほかの協力仕事であることは容易に想像つくうえに、極力通信容量のおおきな情報を避けるようになったために、これだけせつせつと其の辺に関して語れるが、1つの目の弊害を知らぬひとたちは、まるで無自覚にその虚無から攻撃性を発揮してしまうのではないのか。




他人の話は、要するに…、で閉じる方へ聞くべき場合と、そのためには…で開く方へ聞くべき場合とある。







こんにちはw。