おはようございます。
そうね。
考え方の違いだってパン!と頭ごなしに思っているところがバカにしている証拠だね。
あのとき、智者ほど冷静に打たない人数を増やすべきだった。
庶民が騙されないために庶民にも学問教育が施されるようになったのに、騙されることをまだいいことがわるいこと、悪いことがいいことなんて喧嘩両成敗の安全地帯にいたがるあたりもバカにしている。喧嘩両成敗ばかりじゃいけないよってむかし言うたのに。
どんどん死ぬひと、後遺症もつひと、接種者だけに増えているって話。ただ、怖がって強い薬であるイベルメクチンをひっきりなしにつかってしまった非接種者も最近早死してしまいました。
とにかく冷静に、劇薬とは何かを考えるべきだったし、これからも考えるべきなんですよ。
私からの敵意をどうするかより、自分が知っていると、あるいは知ったと思うことに関して、でも、◯◯とは何か、について、◯◯永遠なにか、というくらいに答えられる一文を持たぬうちはまだ知らないのであると自重して、あらゆることを考えてほしいと思います。
後遺症負ったひとたちを少子高齢化社会で支えながら生きていかねばならんすじにあるのは我々や我々の子どもたちになります。
後遺症なんかこさえてほしくなかったわけです。だからほんとうに、あのときばかりは考え方のちがい、とかプライド保ってないで、次世代であるわたしのいうこと。あなたがたがしっかりてまひまかけておかねもかけて教育を受けさせた私の出した答えを信じてほしかったですね。
凄まじい負担ですよ。
税金でまかなわれるんですよ。
さらに重税になるわけです。
世界一の議員報酬をとられながら、さらにそのむこうに、後遺症のひとたち、遺族の人たちにオカネをとられるわけですよ。
悠長な、考え方のちがい、なんてプライド、この現実のまえに砕け散るべきなんですよ。もしそのプライドがないとあなたは自殺してしまうってんなら話は別ですけどね。
私の立場でいえば、少子高齢化傾向に逆らって子沢山傾向を実現しています。
私はとにかく未来予測は適確なんですよ。
昨日は年下の上司に怒鳴られました。
彼はこのところたるんでいるとみなして、最初からカツを入れるためにちょっとラインに入ってみた、だそうです。
先入観をもって入ってこられると、私の普段からの思念とかはかき乱され、いつもならしないミスは誘発されます。
先入観がなければ、カツを入れるため入ってみたけど、このひとたち私の想像よりははるかに頑張っているわ、という、考え方の改めができるわけです。先入観を保ったままだと、考え方を改められず、とにかく怒鳴る、カツを入れた、という答えがほしくなってしまう。
わたしは距離があったし、その出来事を、またべつの改善につなげられるべつの答えをみつけた、いわばわたしのほうが考え方をかえたからその場は喧嘩になりませんで、年下に年上が怒鳴られたが恥とも思わなかった、というジジツで終わりましたが、もっと近い距離で怒鳴られていたら怒鳴り返していたと思います。
ほかにも、考え方を固定して先入観をもって発言したがために、わたしに3度手間をとらせたひとに怒った出来事などもありました。
責任感をもつということは、考え方を変えないことではありません。
右の脳、左の脳、ステップワークしながら、前に少しずつ進んでいく。右の目でみてみたり左の目でみてみたり、比喩じゃないですからね。そうやって具体的に動いて、べつの答えもストックしていく。考え方をかえても、結果がよくなるほうを選んでいく。他人に、とくに次世代に負担がかからぬ答えを選んでいく。そういうことです、責任をとるということは。責任感をもつということは責任をとることとはまた違うんですよ。責任をとって辞任、てのは、よほどの不祥事を部下や本人がやらかしたときです。辞任てのは責任とりの一種であり、たしかな責任とりではありません。ほんとの責任とりは不祥事を起こさぬようふだんから考え方すら変えながら結果を出し続けてたちまわることです。
本を読む姿勢が固まっていれば、読み取りの効率はいいと思います。
でもそうすると、出せる答えがひとつになります。
いろんな角度から、いろんなひとの立場を考えながら同じ本を読まねばなりません。共感している場合ではないんです。感動している場合でもないんです。ほんとうに本を読むのであれば。