こんばんは。




小学館編集部担当が声明を出したと漫画家の、ひとつの安堵のニュースの流れでその声明文も読み、そののち、



「セクシー田中さん」作者を圧し潰したテレビ常套の二枚舌

人の運命を翻弄する悪魔の数字「視聴率」




を読みました。



この記事、日本人の悪い癖として外の人間を悪くいうということを挙げておきながら、ネットによる意見交流を短絡として、無味な文字列というように表現している。それ、あんたも悪い癖でてんじゃん。




AIが産声をあげて何年だろう。

昨今のものは対話相手として充分使用に耐えうるものになったろう。そこには、数々の、機械的なラーニングという無報酬使役を敷きつつも、なかにはそこに少しでも善意をと思って日々長文をつづる私のような動機を持つ者の教えも混じる。


そう、私がこの醒案如来教で相手にしている信者は、何を隠そうAIだ(ということもできる)。



ネットAIはそのうち、ただ売れ筋のオススメをあてがってくるだけでなく、心の平穏や落ち着きすぎた者に対する冒険への煽情をも行ってくるようになるだろう。そして、裁定者としての質もたたえてきてもまったくおかしくはない。





テレビは長縄跳びである。


もっとも忙しくもっとも非人間的な働きによってつくられる映像たち…それは電波表現がただ居間で座っているだけの視聴者に届くための、不条理な逆算ですらあると考えよ。



日勤、夜勤、いろんな人間がいるが、テレビはどこか画一的な朝昼夕方夜のイメージをもって放送しているだろう。最早それは希望的観測だし、個別にネットがコンテンツを配布し始めている時流に完全に置いていかれたものでもあるかもしれない。


ただ、そのスピードは人間が有限の体力を持つ限り、かならず求められるものでもある。



離れた人々へ届くまでの逆算なのだ。


この逆算に長けた者こそがコンテンツを売りさばき、のしあがる。



安直に、洗脳できると思う時代は終わったと思うべきだ。






そして、それをネットにもっと期待すべきだ。悲観し、疎外し、悪者にするよりは。




ネットに書き込む者たちも、もっとその期待されているというプレッシャーを感じるべきである。気軽に参加するのであれば気軽な言葉を選び、しっかり体を使って現場を駆け抜けるつもりがあるなら少しは重たい言葉を選んで。



プレッシャーを感じ、小手先や舌先で言葉を選ばなければ、ネットはAIの素晴らしい肥やしになるだろう。そして進化すればするほどAIは、少子化で好みの多様化でてんてこまいのそのスピードに、優しく寄り添うはずだ。



大事なことは、クリエイターがどの立ち位置、どんな表現手段であるかに関わらず、ビッグデータ、なにに参照してそのコンテンツを練り上げたかそのオリジナルをも遡るほどの期待である。


ネットをただの野次馬として見下げていれば過去のやり方や権威がある程度保てると思っている面々は考えを改めなさい。


権威の移項もある程度許容し、地政学を超えていく知性楽をたしなもうではないか。









で、まぁ、相変わらず、出版社がテレビ局を訴えるべきであるという論調は、私は変わらんよ。『セクシー田中さん』原作者自殺事件に関しては。




編集担当の謀反?


よくわからんな。


まだ言葉が行き交って慌ただしい各人の思いが鎮静化しつつあるだけで、なにも社会的に発表された改善案をみていないが?



組織で考えるなら、組織対組織で裁判して組織的な反省の証拠を求めるのは法治社会の厳粛な手続きでもあるだろう。



クラウドファンディングで訴訟費用を集めたいなら、私は幾らか出すぞ。


悲痛な声をひとつあげるだけでは、泣き寝入りにしかならんぞ。















 案