テレビを持ってなくてもなぁ


観てないようで観てるのよ


温泉にテレビあるからなー


そしていつかみるかもわからんのよ


ネカフェにもよく行くからなー



紙媒体はいつ読むのか


人生においてどんなタイミング


どんな気分なら読めるのか


そこまで選んでこそゃと思うし



ネットは即応性がもっとも高く


ネットで言葉を吐露するということは


それだけすぐさま反論も


もちろん賛同も来(き)うるということ



さまざまな表現は


いろいろなタイミングでの関わり方が


できるし


しなくちゃいけないということ



それを忘れて


無関係と決めつけてしまうのは


逆にいえば業務妨害の意味合いを帯びると


わからんかな



実写化作品を観ても


そこに原作のスピリットは


ある場合ない場合とあって


ない場合にも言う言わないあるから


深刻にとらえて問題視する声は


誰あろう原作もあげたのだろう



わたしがその件でおくやみ申すとしたら


騒動がいったん鎮まってからだと


こんなふうにタイミングも考えている


事件が起こる前に


有名人たちは擁護しなくてはならなかった


それをせめて


私目線で包括するために


タイミングをわざと遅くする気でいるんだ


報道されているその原作者の名前が


本名なのかもまだ知らないしな



紙媒体の作品は残り得る


ディスク作品としても残り得る


どちらも残り得るんだから


自殺という抗議の仕方は


もう少し批判されてもいい


あまりにもどちらも残るということを


そして他人の心にも痛みとして残るということを


考えなさすぎの狂気の抗議だろう



実写化成功の流れは


みたみてない


みるみない


そんなところをなにかものいう権限として


区別することをしようとしまいと


CGやAIの卓越により


止まることはないだろう



だから問題の焦点は


読み手


観る目


多くの受け取り手たちの


コンテンツをよりよく現実社会にマッチさせる


人的努力のほうになっていく



流行りのその真っ只中に直ちについていったものでなければその作品のあつかうテーマに触れてはならないなんてこともないし


人生は色んな角度から色んなタイミングで交錯するものだし


そこをすべて統制しようなんて


あるいはひとりで編集してしまおうなんて


ものすごく危険だってこと


まだわからんかな



じゃあどこで知的財産の創作者たちはソレを自分のものだ!と言っていいのかと云いたくなるだろう


残念ながらそれは被っていて


私も云いたいことなんだよ



あたらしくうまれてくる子たちの可能性までも配慮して


私は専門譜の研究と発表をやりもした


その報酬は三千円未満


でもあとの者たちの可能性をつぶさなかったから


遅れてあとから別角度から報酬をいただけていると


思っているよ



もっともっと考えろよ


ツールが変わっていく


人口動態が変わっていく


求められるスピードが変わっていく


評価はどう対応すべき


もっともっと考えるんだよ