違法行為がときに明暗の明と勘違いされてきたことが不味かったのであって、批評家気取りが増えてそれが今、まだ正され始めたところでしかない。いつか新しい均衡状態は来るはずです。それまでの話です。




こんばんは。


今回は、ボクシングの有名なかたがこんな社会でいいの?と言っておられたので今のところいいよ、とかえす話です。




絶対的な正義と相対的な正義ってのは、絶対音感と相対音感レベルで相対音感のほうが使い勝手があるような話ではない。


人を殺してはいけませんとか、人を傷つけてはいけませんとか、絶対的な正義はありますよ。


ボクシングは人を傷つけてはいけません、に引っかかるし、なんなら事故で人が死ぬ競技でもあるから、より広い守備範囲から正義の相対性を説きたいのは察しますけれど。戦争をやめてボクシングしようぜって、オリンピック初期からその歴史を進めてきたルールある格闘技と、ルール無用だったり混在だったりする世間一般での正義の相対性は比べるまでもなく後者は危険極まりないんですよ。


また、ボクシングも人が死んでしまった場合はなぜそれが起きたと反省されてルールが研ぎ澄まされなくてはならん意味では、現代の相対性に晒されていること、これは同じボクシングでもたぶん敗れることの多かったひとにこそ分かる話だと思いますよ。




相対的正義を全面に出すと戦争すらも許されることとなり、ボクシングの原義にも関わる話です。やはり絶対の正義あってこそ、ボクシングも長い歴史を誇れているでしょう。




情状酌量って考え方はありますから、正義が相対性を帯びることはありますけれども、まずいまのところ、たとえ時効が来た事件でも時効撤廃の例も念頭におきつつ、増えた批評家気取りがそれなりの正義を発現することは私は良いと思いますよ。



大事なのは正義をきちんと比較する目や頭、考えを養うことでしょう。


誰かが失敗したことをネットによる大勢の批評家気取りに批判というか誹謗中傷されたとして、それで自殺に追い込まれる人は、これくらいの失敗でそこまで大勢から悪く言われる筋合いはない、という絶対的な正義を誇らずに、正義はひとそれぞれで、その人それぞれの正義がこれだけ数多く私を批判しているのだから私は私を殺すべきなんだ、ってな相対的な正義に押し流されてしまうからでしょう?


絶対正義はある。


脛に傷持たぬ叩いても埃出ぬひとがその絶対正義の頂点に君臨する。


天皇が日本の象徴であるなら天皇がその絶対正義の頂点でなくてはならないが、それは事実史実からそうでなくてはならず、もしも事実史実からそうでないならほかに絶対正義の頂点は居ても構わない。


それくらい、絶対正義に関しては誰もが心を開き、興味を持ち、自分の利害を度外視した比較ができなくてはなりません。





ちなみに私は絶対正義の頂点からは早々と退いています。けれど、だからって絶対正義をいくつか持っていても、それらすべてを相対正義であると言うつもりはありません。




多くの批評家気取りも似たようなもんだと思います。

自分のなかの絶対正義をすべて完全に相対正義にあけわたすわけにはいかないのです。


なぜそこをあけわたさないか。それはたとえるなら、ボクシングのボの字も習ったことのないひとが、明日にもリングで素手の殴り合いをしろ、と言われるに等しいからです。


似たようなものだから、いつか自分も槍玉にあげられ失脚させられるかもしれないというリスクは感じていると思いますよ。それがほんとうにリスクならね。







レイプだとか、未成年略取だとか、そんなものが明暗の明の支持力になって宣伝されなきゃ売れないような背反的なモノなら、ある程度売れなくていいです。レイプされたひとや未成年略取されたひとたちは、そういうモノが売れない悩みよりももっとつらい悩みを抱えて生きている…のであろうからです。


私はレイプされたが違うってんなら、それもまた発言されればいいでしょうし。