不足分寝ようとしていましたが、凄まじい脹脛の攣りで目覚めました。
身体に自分の声量以上の見えざる声が直撃しました。
「ブログをやめ(ろ)」
私は、ろ、まで言わさず
「(だったら子どもたちをこちらに)か…え…せ…!!」
と言い返し、英雄のポーズをねじったような脚構えで脹脛を伸ばすように押さえつけながら、その見えざる巨大な声を攣りと一緒に身体から追い出しました。
で、攣りはおさまり…椅子の上。
薬害被害者が反ヴァクチンの考えを排斥した被害者の会で、会員の後遺症のケアそれ以上でも以下でもない保障を裁判で得ようとしている今現在、私のような最初の未知の新型騒ぎのときから、今回の話はおかしいぞ!と反ヴァクチンであった者も、彼ら彼女らからしたらもう、黙って慰謝料をよこせと言われる 国 のひとりになっていそうなのです。
薬害騒ぎが起きるずっとずっと前にも言っていましたが、そういうことなんです。裁判で、国、の責任を追求するということは。すでに果たせる責任を果たしたはずのようなものでもさらに責任を追求される…。これは間接民主制の歪みです。
それとおなじ感覚でね。
私だって違法行為すら作戦の一部としてやってくる職業法律家に国家資格をあたえた国、実子誘拐を刑犯罪としてやらせないということをしない国、やってしまったやつをたしなめない国、責任追求したいんですよ?つまり、本件においてはもう充分責任を果たしたはずの…、たとえば実子誘拐された1番の被害者であるはずの子どもたちや、奪われてしまった側の片親たちをも 国 の一部として、責任追求したい怒りはあるんです。
そういう気持ちの裏腹が、冒頭の、見えざる巨大な声と攣りと、その悶絶のさなかからひねりだした「(わがこどもたちをこちらに)かえせ」なのですよ。
これを、心身の異常と仰るのでしょうか?
異常なのは実子誘拐した側でしょう?
さすがに、実子誘拐被害者たちをも 国 の一部としてクドクドと言い争う気なんか私には無いわけですよ。だから実子誘拐被害の悲しみや怒りは掘り下げることなく、昔から追求してきた自転車技能…跂能などに集中し、悲しみと怒りの発露としての犯罪も訴え出もせずに居るでしょう。
その理不尽に耐える日々の証明として、毎日毎日ブログをアゲているわけでしょう。
どれだけ実子誘拐されることが私にそれまで必要なかった強い負担を強いるか、その負担のなかからそれでも前進するくふうをひねりださねばならないか、このブログが同時にそれを証明しているでしょう。
私は低空飛行区うまれで、そもそも怒りと警戒の緊張…言い換えれば強い強い外界へのうらみを持って赤ん坊時代から育ちました。そんな不利なシチュエーション、聖者のフリしたり狂ったようになったりして自殺した同級生たちだって居たんですよ。黙っていて社会に不利無く溶け込めた人たちも居たでしょう。私だって実子誘拐されるまえのブログ記事投稿数をみてくださいよ、圧倒的に少ないんですから。私だってできることなら黙って社会に不利なく溶け込めるならそうしたかった。
それを壊したのは実子誘拐に加担した非国民たちですよ。
非国民たちの責任は、国の責任とできないでしょう?
これが私からの見えざる超巨大な声ですよ。
低空飛行区を二十年以上かけて這い出てきた私を実子誘拐で打ちのめしたような非国民は国じゃない。だから国の責任追求はできない。私は実子誘拐などしないでいる、しなかった人たちが国民だと思っている。実子誘拐になど非国民の違法行為として手を染めないその人たちこそが国だと。
私は低空飛行区うまれで、平和的に私の生まれついての不利を理解されるためにはいつか便利にいきていたいひとたち、不便な生き方をしたくない人たちに立ちはだかるような声をあげねばならんことなど、三十年以上前からわかっていた。それが入りたい小社会から反発を食うかもしれない、入りたいところに入れなくなるかもしれない結果につながるかもしれないことなど、三十年以上前からわかっていた。
それでも私は私で、国民のために、実存のために、私の心身の健康のために、私でないひとの心身の健康のためにも、私なり、努力を精一杯やってくほかなかったでしょう。やってくほかなかったですよ。
ああ、まだ左脹脛やアキレス腱が攣ろうとしている…。
苦労なき者たちの、便利に生きている者たちの、モラトリアムの無罪という重複したダダコネのために、いったい私はどれほど身を砕かねばならんのでしょうか。
どうか神様、醒案如来さま。
私には便利でも不便でもどちらの生き方でもいいからお与え下さり、私が私でないひとに理不尽を押し付けないで済むように、おはからい下さいませ…。