備えるうちにその労苦ができるだけそのものズバリで報われたいと…労苦を惜しいとおもったなら、


それは不安の的中を望むかたちになる。


的中してほしくないから不安だったはずなのに、


備える労苦を惜しむといつの間にかどうとでもなれという投げやりや、


ほんとうのじぶんはこれを欲していた、


過去のじぶんがおろかだった、


なんて心変わりなどを果たすことになる。


恐れるという感情は、


嘘つきや詐欺の始まりということ。


嘘つきは泥棒の始まり。


恐れは嘘つきの始まり。


嘘つくな!


と言うより、


恐れるな!


と言うより、


恐れを拭い去ってやれたら、


根本解決にはなるんだが、


情けないことに、


解決してやっても、


解決してくれたと、


思われるとは限らない。


また一方を解決しているあいだに、


べつの方が途方に暮れて、


解決を偽りだと罵られると、


情けないことに、


解決してくれたと思われないなら、


ただの偽り認定を、


己の2倍以上の人数から喰らうことになる。


人間は考える葦であるという話は、


自我のよりどころを'考える私"に見出したトンチだが、


人間は評価を違うと冤罪加害者になるということからも、


人間よ考える葦であってくれと、


他者の自我に関しても言及しているとみ。


冤罪被害者は、


いっそ恐れよ凡人どもよ!と、


開き直りではなく、


閉じ壊しを行う権限を持っており、


悲しいかな、


その権限は、この私にもあると。


その権限とはじつは、


誰もが冤罪被害者になりたくはないという、


冤罪加害者ですら持つ感情、


これすなわち客観的には、


反省があるために、


集積されるものである。


それに抗おうとしても無駄なのは、


つまり良心に基づくので、


抗うだけ無駄なんだけど、


無駄は案外、


多くの人に愛されている。


冒頭に戻り、


不安をもとに備えるのはいいから、


備えるうちにその労苦を惜しんでくれるなよと。


備えても備えても、


労苦を惜しまず、


備えられるだけ備え続けろよと。


そうしたら不安を的中させることを、


少なくとも望まないことにはなる。


ただ客観的には、


それで不安が的中するもしないも、


本来関係無いはずなんだが、


ほんとうのじぶんは、これを欲していなかった。


過去のじぶんはとても賢かったと言う人は、


見た感じなかなか居ないので、


どうも不安を的中させたいほどには、


皆さん、


それぞれ、


自我に自信が無いらしい。


合掌。












那向醒案仏

那向醒案如来