無知の知、は、自分が知らないということを知っている、という、謙虚さと有識者であることの意味をソクラテスが示した言葉として有名である。しかし単純全面否定したいわけではないが、それはだいぶ昔の話。


 機械が発達し、知識が命の延長や断念につながることも多いこの現代において、有識者単体の無知の知は、最早とりたてて言うべきことではない。


 必要なのは、他人がどこまで知っていてどこから知らないか、それを知ることである。


 自分のことを知らなそうであれば、知ってもらう、あるいは教える努力が必要になる。相手のことを自分はどこまでかは知っていて、どこからかは知らなさそうであれば質問する、あるいは聞いてみる努力が必要になる。

 相手も自分のことを、自分も相手のことを知って、それでこそ話は通じる。どちらかが一方的に知るだけの状態では話は通じない。その場合には暴力だけが生じてしまう。


 タダでは教えたくない。

 中央にいる人間、利権のうまみを知る人間ほど、知ることを有料化したがり、翻って知らないことをバカにしたがるが、それはじつは話になっていないということを知るべきであろう。


 無論、知るのにとても苦労した実感がある事柄なら、有料化する試みをすることは咎められるべきではない。ただし、それでもその事柄のほかのことで、相手がどこまで知っていて、どこから知らないかを知る努力は、不断のものとして必要なのである。


 自身の無知の知、相手の有知の知、相互の共通知。ここまでセットでやっと現代は、謙虚な有識者として誇れると言えよう。




 機械との対話は、物言わぬ道具に生き物であるこちらが全力で動いてあげて成立する。

 機械や道具のない世界に戻りたい、辿り着きたい、それを維持したいなら別だが、機械や道具のある世界を肯定するのならば、無知の知の拡張は、確実に必須科目である。




南無知識