感情のこもった主観による発言は、感情をほぐし、暴力を分解させる唯一のチカラだよ。
 オレがそれをやったから、オレの妹は父に殴られる役にならずに済んだ。
 姉から、わたしが出てったら次はシゲトだよ。(オレが殴られる)と言われたことがある。
 じっさいその通りになった。
 じゃあ、オレは妹に次はお前だよと言ったか??
 言ってない。
 オレがその暴力を分解させてやる、そういう強い感情をもったからだよ。
 そして事実妹に引き継がせなかった。
 暴力を分解させる!という強い感情は、あの家ではオレしか持たなかったから大変な労力と時間をようした。
 しかし、複数人でその感情をもてば、そんなに時間も労力もかからない。
 なんのための3人制なんだよちょうていいいん。
 当事者の憤慨や怒りをひとまず抑制、鎮静化させるのにもその人数の活用はよろしいけれど、そこから浮かび上がった推定ジジツに関して意見できなければ結局なんの意味もないよ。でなければ、またそれを火種に当事者の憤慨や怒りは何度でも再発するわけだから。というか、再発だけで済めばいいけど、火種の種類によっては当事者が増えてしまうぞ?
 もっと理性と感情、どっちもつかえよ。
 感情的になるのはいかんのよ。
 感情を出すのはいいのよ。
 わかる? 違いが。
 感情的になるってのは、ジジツ関係を探ることなく誰かの一言をすぐ鵜呑みにして怒ったり悲しんだり喜んだり驚いたりするこっちゃ。
 感情を出すってのは、ジジツ関係を探ったのちに、それについて見解をもち、発言、表現するこっちゃ。推定ジジツでも、信に足るとおもえば表現すべきなんさ、感情は。証拠がないから信に足りない、というのこそは裁判でやれ。
 話し合いの場の調停で、感情を出すのと感情的になるのとの分別もつけられずに、職務規定に基づくオウム返しのオウム真理教になってんじゃねーよ。だいたいオウム真理教その看板はひとまず解体されたはずだぞ。時代遅れも甚だしい。