右でも左でもなく | 日本出身モスクヴィチカの徒然

日本出身モスクヴィチカの徒然

いわゆるモスクワ情報ではない だけど少し紹介したいロシア人の頭の中、日々ロシアの現実と相対するニホンジンの思うこと、モスクワの子育てのこと…etcを綴っております。

前回の記事で、「右にも左にも属せない」
複雑な立場をご説明しましたが、
自分にとっては複雑でもなんでもなく
判断基準は

「良いか・悪いか」 

それだけなんです。
良い のは、はばかることなくできて、人の役に立って
役に立たなければ障害になることもなく
プラスが多いこと。
悪い のは人や自然に危害を加え、
寛大でないこと。

・・・単純です 爆

で、その立場から言いまして、
原発は「悪いもの」ゆえに原発には反対です。
「原子力の平和利用」なんてよく言えた
と思っています。

原子力を生み出すためのウランをとるために、
鉱山で労働している人がいます。
ウランそのものが人体に有害なので
その人たちが健康被害をうけています。
周りの環境も苦しんでいます。
この上流工程の罪を指摘する意見が少ないようですが
そもそもウランを取ろうというところで
ものすごいリスクを犯しています。

ウランが化学反応を起こして原子力エネルギーが生まれて
だけど炉が間違って爆発しちゃったら
核物質が放出されて、また環境が苦しみます。
その場所には人が住めなくなります。

・・・単純なことじゃないですか?

原子爆弾が投下されて
「原子力は恐ろしい」 ってことを
一度日本人は骨身に染みてわかった筈ですよね。

それを「原子力はコントロール可能」と思ってしまって
原子力=未来のエネルギー
あ、クリーンで安全かも しかも再生産可能なの?
すごーい

なんて思い込んで、50を越える原発を作ってしまった。

福島にいたっては、実は設計上の操業可能年数を越えて
ごまかしながら操業していた って
そのほうが問題ないですか?

設計上「想定外」が多すぎ っていうか
想定しておくべきことに目をつぶっていた点があったとか

そもそも危険なものを扱っている っていう意識が
ずいぶん希薄だったのだな と思います。

それは、日本人として、自分自身反省すべきことなのですが。

そして今、25年前のチェルノブイリをほぼ他人事としてやりすごし
フクシマが世界的注目を集めるにいたってようやく
「原発に反対しよう」という声が日本でも聞かれるようになりました。

が、その反対運動の、まとまりのなさと
すっきりしない政策に、外野の日本人としてもどかしさを感じます。

りりちゃんが同席してしまった「デモ」の
要求の多すぎることにはびっくりしましたが 汗

日本の「デモ」って、そんな位置づけなのかな と思います。

6.11はまた一味違っていたようですけれどもね。

かといって、イタリアのように
「国民投票を」 という動きにもならない。
ドイツのようにすっぱりと
「原発やめ!」 という政策も発表されない。
脱原発を表明している国も
電力を原発国から輸入している矛盾はあるにせよ
「原発から再生可能なエネルギーへと転換」する方向性を
選択した という決断は評価すべきであって。
そんな決断力を持つ政府なり国民であり
また決断力を発揮できる政治環境である というのが
日本に足りない点だと思います。

主張をするのに、右も左もありません。
「この方針はおかしいと思うよ?」という意見の発露が
何らかの政治グループにカテゴライズされなくてはならない って
寂しくないですか?
ブログやTwitterでは
堂々とした意見の表明がたくさんあるのに
それはまだまだ少数派で、PCの画面に向かってるから
できること なのでしょうかね?

アメリカ人なら抗議行動が起きそうなところ
日本人はどうして暴動を起こさないのか という問いに対して
かのデーブ・スペクターが
「暴動起こす前に周りの許可を取るから」 と
答えた と聞いて、爆笑すると同時に痛かったですね 汗

だって・・・その通りだもん!

許可とってる場合じゃない って思います。
だめだと思う人はたくさんいるんだから
「危ない人」呼ばわりされるリスクを心配せず
意見を表明できるような日本であって欲しい。
その意見を反対派も賛成派も
きちんと議論できる日本であってほしい と願います。