一部の方や信者さんなどから救○主が生まれている時代だと信じられているようですが、

だけども宗教に興味がない方はまばつゆものだし、一部の熱狂的な狂信者としか思っていないようですしょぼん

 

今ままでオカルト信仰や新興宗教の犯罪や目にしてきて、世間ではまったく信じる事ができないような状態になっているのも事実グッド!

宗教全体がひと括りみな同じだと思っている方もおられるようですが、でも昔ながら正道を教えている宗教もあるのです。

自分としては何にしても嘘や本物もあると思っています。

奇術師がテ―ブルの下で行われているものを見極めないといけません!?

もし見破る事ができないのなら、一度教団から離れて客観的に見ないと難しい

自分の知り合いの信者さんは、自分で妄信になっていないと本人は言っていましたが、

きちがいは自分できちがいだと解らないように、妄信は妄信になっていないと思っているだけかもしれませんパー

 

新興宗教などは愛人問題やいろいろなゴタゴタになったりすると外に目をそらす行動に出るようです。

教団を維持するために仕方がないのかもしれないけど、そんなものに縛られるぐらいなら

宗教法人や教団は無くて良いと思います。

あくまで神理伝道が目的なのに目的意識が変わって行ったのか?

修行者と言うものは、心の自由、心の進化成長を目指して行っているのに疑いたくもなります。

 

それにゴタゴタ騒動にかったりするとだいたいが〇ダを持ち出すのです。

もし仮に悪魔に魅入られている方がもし周りにいれば、何とかしてあげるのが信者さんなのではないでしようか!?

今度はつじつまあわせて、寄ってたかって皆が攻撃?

自分なんかでも一度は縁があった方には幸せなってほしいと思いますから見捨てたりしませんグッド!

それだけの力であるならば、もしその方が正気でないのなら何とかしてあげたくなるのでは思います。

 

それでも無理なら祈ってあげる事もできるはずなんだけどね。

団体の方などはいつも愛や祈りと言っていますが、都合によっては祈らないのですかね?

自分の考えがもし間違っているのなら、批判されても仕方がない事だけどねパー

聞く耳がもしあればの事だけど、自分の知り合いの信者さんに是非問うてみたいですね。

光の〇使とは愛は与えぱなしと言いますが、都合が悪くなったら、はいおしまいで縁を切る

これが光の〇使というものですか?

菩薩、如来は心を説くと言いますが、その微塵も欠片も感じる事はできないのは自分だけなのでしょうか?


マタイによる福音書 題5章39節

イエス様はしかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。

  だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」

  マタイによる福音書 題5章39節