前に聖フランチェスコの事と公案の事にいて書いた記憶がありますが、

 

この最後の一瞬に至る心理状態と言うものが少し解るかもしれませんねニコニコ

 

 

聖フランチェスコは愛したいけど、どうして愛したらいいのか解らないというジレンマ・・・・。

何日も苦しみが続き、不安が増し、イライラと絶望がつのり、ついに・・・・フランチェスコは悟ったそうです。

愛したいけど、どうして愛したらいいのか解らない。全身が疑問のかたまりのようになって、

そういう普通の意識状態を超え、意識の限界に達した時、

最後に一瞬の飛躍があり、意識の境界線を越えて、本来の自己が現れたのでしょう。

我をわすれて、そのものそれになりきった時、何らかの感覚の縁にふれて、

そのとき初めて、本来の自己を悟ると言うものかもしれません!?

そのものになりきって、(ものになる)ところに本来の自己が現れるものだと思いますパー


臨済宗では公案という謎のようなものが、師から弟子に与えられると言われていますはてなマーク

これは自分の知り合いで臨済宗のある本山にいた、お坊さんをしていた方から聞いた事がありました。

本山修行では、「隻手の声」とよばれるものがあって、つまり両手を合わせれば音がするけれども、

片手の音が聞こえるかという問題だそうです。

これはいく頭で考えてみてもどうにもならない問題ですが、それなのに独参といわれるものがあって、

何回も老師のもとに引き出されるというものです。。

その回答を何回も要求されるそうです。

そして普通の心理状態ではなくなり、次第に普通の意識状態を超えて、

最後に一瞬の飛躍があって、仏性の本来の自己を見るそうです。

これが臨済宗のにおける悟り(見性)だと思っているのです!?

対象物に溶け込み一体となるのには、悟ってない者が、悟ったような事を言うのはおこがましいですが、

対象物に溶け込み一体となる、対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかが分かれ目だと思います!!

正しい坐相によって、自分が対象物に溶け込み一体となることが、主体と客体の合一な体験であります。

その為には、正しい坐相をねらって雑念にふりまわされず、祗管打坐して行く事が大事だと思います

主体とは自分自身のことであり、また客体とは対象物を指します。

一種の三昧になって、神の力との合一がおこるのですニコニコ


精神集中と言えば、一生懸命に目の前にある壁を睨み付けている事が精神集中だと頑張っていた方がいました。

実際は精神集中している自分をも対象をポンと捨てないと開けてこないのです。

これは壁を睨み付けている頑張っている自分をも捨てないといけないと思いますパー


禅的には正しい坐相をねらって筋肉と骨格で、思いを手放し

雑念にふりまわされず、祗管打坐して行く事が大事だと言う事になるのではと思います。

また、マントラを捉えている方は、雑念を捨てて、マントラに成り切る事だと思います!!


精神集中に集中できている自分をも対象をポンと捨てないと開けてこない

集中できている自分もポンと捨てないと、悟りの手前までともう少しと言うところまで来ている状態なのに

元のもくやみになってしまいます。

それには神仏のご加護・師の恩恵なくして到底達成はできないと何回も自分は言っていますが、

体験すればきっと理解ができると思いますよ。

自分一人では到底達成できないと後からつくづく思い知らされますね。

これは宗教だからと拒否反応をしめす方もいると思いますが、そういうものだとしか言えません。

正しい坐相をねらって、思いを手放し雑念にふりまわされず、続けて行くと、

普通の意識状態を超え、意識の限界に達した時、意識の境界線を越えて、はてなマーク

最後に一瞬の飛躍があり、主体と客体の合一な体験をする事になるかもしれません!?



本山先生は言っておられます。

悟りに達するには、一切への無執着と、行の極で自分と神仏に全託する事こそ肝心

この対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかに、悟りが開けるかどうかに掛っているのです。

精神集中の対象になりきっる程に集中ができているのに、

その集中して対象になりきっている自分をも対象をポンと捨てられないと、

悟りの道程の九分九厘迄行っていて、定から出てくると又元の処に戻ってくる。

悟りの境には達しない。

このポン自分をも精神集中の対象をも捨てる事こそ、

乾坤一擲(けんこんいってき) というか、悟りを開ける一番肝心の所です。

ところで対象になりきっている自分とその対象をポン捨てる事、

そして一躍して悟りの境に入するには、人間だけではでない。

そこに神仏の力が加わらねばできない。

神仏に自分の総てを託する。

任せねばなりません。

その時神様が、その人の自己の殻を破り捨て、高い悟りの境に上げて下さる。

本当にそこまでなりきっているか、菩提心がどれだけ強いか、それは神様しか解らない。


心の確立と霊性の開発
 

登山家のように一つの山を征服したのなら、また別の山を征服したいと衝動に駆られるパー

新たにチャレンジしていく登山家のようにまだいくつかの山は聳え立つているのです。

それをまた征服していくと、それが偉大なる登山家と言われるようになるのでしようね。

一つ大きな山を征服したから、それで良しとするか?

また違う風景を見てみたくなって、新たに別の山を求めて山頂を目指して行くのか?

もし偉大な登山家だとしても、今見る風景を良しとし、あるいはもっと別の風景が見たいと思うか?

ひとそれぞれのその違いがあるのかもしれませんね。

どこまで良しとするか!!

ひとそれぞれだけども、でもいったん入り込んだ山は途中で引き返したとしても危険はあります。

どうせ引き返しても、引き返さなくても危険が伴うのなら、途中で引き返すのも後悔して心残りになるかもしれないからね。

最後まで頂上を目指して行きたいものですね。


ほんと山の頂上に至るまでは、いろいろな障害もあり危険な面もあると思います。

でも途中でやめてしまう事も危険が伴います。

どこまで追求するか?違った風景を見てみたいと衝動に駆られるかは本人次第ですね。


ほんと山を征服するように心の進化も目指していきたいものです!?

クンダリニーにしてもね、確かに想像を絶する体験だったけど、

これは世の中あるどんなものよりも、人間における究極の体験だと思いますパー

人間とはいったい何なのか?

何者なのかと思いしらされる究極の体験だと思います。

ほんとつくづく思いしらされた体験になりました。

もしかしたら瞑想中や クンダリニーの火の蛇が頭頂にチョロチョロと上がって、

その程度ぐらいなら、あまり強い体験にはならないかもしれないけど?

クンダリニーが強くハクションして上がって行った場合などは、強烈な体験になるかもしれませんね。

でもどちらにしてもその後のとてつもなく不安に悩まされる事も出てくるかもしれませんはてなマーク

ただ強くあがれば良いと言うものでもないと思っています。

何故なら、もっと上の次元での覚醒などは、少し穏やかだと言う方もいましたし、

少し気が回ってクンダリニーが動いた程度の違いもありますからね。

そこは何とも言えないですね。

ただそんな覚醒をしそれを乗り越えていったものだけが、聖者や覚者と言われるゆえんかもしれませんね。

でもクンダリニー覚醒でそれで止まっている方もいるような気がしています。

それですべてが終わったのではないのですが、少なくても意識の広がり、心の解放、心の自由なくしてはならないと思っているのです。

これなどは、師がいないものは、少し難しいかもしれません。

何故なら自分が体験して、そう思ったのです。

悟り(見性)体験にしてもそうなんです。

後につくづく神仏や師の恩恵によって開く事ができたと思い知らされましたニコニコ


ただクンダリニーや悟り(見性)などは、自己流での行はお薦めはできないですね!!

やはりその道の卓越されている師や導師のご指導なくしては危険だし、

それを一人で乗り切るだけの強い気力や体力もいると思いますが、死に切ると言うか?ほんと死の淵を垣間見るはてなマーク

それを乗り切る事は、神仏のご加護に師の恩恵や後は信仰心だと思います。

岩をも通す強い心、どこまで自分を信じられるかと言うことが問われる事になると思います!?


結構覚醒を目指していて、ヨガや瞑想などしていて、なかなか覚醒ができないと思ったりする方もいると思います。

前世の事は言いたくはないけど、前世と言わずいつの時代かにそんな行を行った魂であるならば、

それだけ縁によって、体験できる率は高いようですね。

でも一念岩をも通すと言う言葉があるように、強く思う心は岩をも貫き通すとありますからね。

自分を信じて事に当たれば、どんなことでも成し遂げられる事になるのでしょうねパー

最後には求道心だと思います。 !!


それと何んにしても若ければ若い方が良いと言うものではないと思いますが、やはり(気力、体力的)にもね。

若い事にこした事はないと思いますよ。

それとクンダリニー覚醒の肝心な事は、性を漏らさずにねニコニコ

後はいつも言っているように神仏のご加護や師の恩恵なくしては難しいと思います。

それと結果を求めず、成り行きに任せる事ですね。


長年ヨガとか瞑想をしていて、準備が整ったならそんな究極な体験はできると思います。

最低限性は漏らさずにね(笑)

これさえ抑えられないようなものならば、究極体験は諦めたほうが良いかもしれないですね。


ただ人間におかされた究極の体験だとしても、鬼の首を取った如く自慢したいが為に言っているのではありません。

ただ霊的なものが覚醒したから、それがすべてとかではなくて、クンダリニー覚醒や悟り(見性)、悟る

カルマの巣と言われているようなものを開いたり、チャクラの開花とか?

まだいろいろな体験はあるのです!?

見ていると、霊的にものが現れて、意識としては今まで通りだから

変わりばえがないと思っている方はいっぱいいるようですけどね。

でもいろいろある奇跡体験にしても同じ人間だから同じ体験は出来るのです。

入った道は別々の道だから、体験としては違ってゆくのは仕方がないのかもしれないけど、

山頂に上る道はいつくかもありますからね。


それとクンダリニーに体験をしたら太師や聖者とかなったと自分で公言している方もいますが、

自分はそうじゃあない。進化の過程だと思っているのです。

そう個人的にはは聖者や太師に至る体験だとしています。

そこで覚醒して霊的なものをが現れたから、それで良しとされる方もいると思いますが、

個人的には意識の広がり、心の自由を求めていかないといけないとは思っているのです。


ほんの広大無辺と言われている悟りの中のほんの二三歩程度足を踏み入れたぐらいだと思っているのです。

それに第二関門、三関門と乗り越えて行かないといけない壁が聳え立っています。

それと何回も言いますが、心の自由、意識が広がっていかないね。


いくら奇跡体験してとしても自分はあくまで体験だとしています。

ある師と言うか?八正道や聖書の真理が無理なく実践できた時に菩薩行が整っていくとおっしゃつていました。

そう~自分もそう思っているのです。


それに誰であろうとそんな奇跡体験はできるのです!!

自分を大きく見せたいが為に?それに自慢話しをしたいが為に言うのではありません。

でも悟り(見性)体験などは、自分一人ではそんな体験はできないと思います。

お釈迦様なら一人でもできるかもしれないけど、生身の人間でしかもこの時世

そんな粗い波動の社会の世界では、なかなか難しい事だと思います。

ほんと雑音や騒音の社会では難しいかなと思っているのです。

だから出家したり、人里離れての修行とかするのでしようね。

自分の体験上、神仏のご加護とそれと師の恩恵によって開けると思っているのです。


ただ、そう言った奇跡体験しても、その後の生き方が大切になってきますパー

天使が天から落ちる(堕天使)とかありますからね。

ここをしっかりと押さえておかないといけませんね!!

また正法が伝えられる時は、こぞって魔が競い立つと言われがありますが

正法が伝えられる?伝えられてない時代?にも関わらず、

人が進化を目指していく途中には、進化を邪魔しようと魔の妨害とかあります。


確かにある進化する過程に、魔は現れて来たりします。

それが現れないとまだ大した事はないと言われたりする方もいましたが、ほんとそうかもしれません。

ほんと天使が天から落っこちてしまう(堕天使)と言うことは、普通の我々人間はひとたまりもありません。


魔にも人々を悩ませ、仏道修行を妨げる4種類のものがあるみたいだからね。

人間のもつ執着や欲望である煩悩ぼんのう魔、苦しみを生じさせる陰魔おんま(五陰魔・五蘊魔ごうんま)、

死そのものの死魔、人々が正しい道に進むことを妨げる他化自在天魔(天魔波旬)をいう。『大辞林 第三版』


だから現世がどんな過酷な環境の中でも自分を見失わず、我を取り除き、動物習性を取り除き

心の超作、自分づくりを目指していかないといけませんね。

ほんと霊的なものばかり重点に置かずにデコボコした心の角を取り落として、

まわるい心を取り戻す為に、まず気づきがあって始めて対処できますからね!?

その為にも反省や悔い改めしたり、心の浄化に努めてただ超作して行くのが良い事だと思っているのです。

スピ系や宗教などでは、良くこんな事を言っていますが、

神は乗り越えない試練を与えないとか良く聞きます。

どうやらそうではなくて、全ての方が創造主・クリエートとして、

自分自身がこの現実を想像して来ているようです。

ネガティヴなものもポジティブなものも引き寄せているのはすべてご自分なのです!!

人生で遭遇するさまざまな体験は、生まれてくる前に魂が設定して選択してきているようです。

だから今の環境が誰であっても完璧だと言えます。!?

最も苦痛、苦難を伴う体験が最も価値のある体験で、学びでもあるようですパー

だからここをしっかりと 押さえて他人との比較せぬようにしないといけませんね。

その事に気づいて、気づき 変化、見方を変えるようにしたいものです。゜


それと誰か何か大きな力あって手の平に乗せて、このようにしないさいというように受けているような事

この宇宙では存在していない

宗教というものを少し取り違えているようです!?

神というものがあなたがた人間に罰したり、何かをしたりと勘違いしている

実際そのような事はないのです。

しかしながらこの宇宙空間魂エネルギーとして誕生してからずっと創造者であり

どの星、どの宇宙、どの惑星すべてご自分で決めてこられて、今の状態も自分で決めてこられている


随分前にイエス様にもう~今の状態から解放されたいと言った事がありました。

神に今の状態からもう~別の体験をしたいと神におっしゃつたら良い

そのように神に伝えれれば良いとおっしゃつていました。

でも神様は何も言われなかったニコニコ

それはイエス様とうつくしい階段を上がって神の前で神と自分の魂との約束


実際の現実は魂と自分の意識のズレは起きます。

それだけ神様と魂との約束しても、意識としてはまだ違うのです。

それだけこの地球の環境は厳しい環境と言えるのです。

だからすべての方はご自分の環境を設定をして生まれて来ているのです。


※(自分はカルマを開けています。)

ときどき自分の感情に囚われ感情に負けてしまう時に

いつも思うんだけど、このように思うときにどんなに辛く悲し事があったりしても

神様は自分の先の事を解っていらっしゃる

だからその時が来た時に、今自分に負けたり

不安になったり投げやりになって、愚痴になったり、喚き散らしても

その時がやって来た時に、自分に自分の感情にまけてしまった事

そのような事にないようにしないといけないと思う時があるのです!!


アシュタールは前にこのように言っていました。

創造主や誰か助けてと言うのはそれは依存になる。

あなた自身が決めた事ですからと言いました。

この地球に決めて来ているのだけど、現実が気に入らなければ波動を変えれば良い

そうすればいくつかのある未来の可能性が変わって来る。



私はジーザスです。

あなたのその光がいつもわたくしのその光の眼の前で輝き

そして神の元にあなたは私と共に常に存在している。

その素晴らしい輝きをどうか人々にもっともっと

あなたが与えてください。あなたが与えると言うことです。


この世にあなたがこうして存在し、どのようにこれから自分を発揮するのか、

自分と言うものを表現するか、そのような事を良く考えていらっしゃる。

この地球に存在するあなたはすべての人々と一体であり

その集合意識のその一つの中のあなたは輝く光

そして星であり、わたくし達と白い階段を登りながら、その地球にそのガイヤに干渉し、

そしてこの素晴らしい世界その宇宙の英知をあなたはもっともっと受け取り、

それをしっかりハートの中にしまい込みどうか思う存分楽しんで頂きたい。


あなたのその歩み続けてこられたその素晴らしい光足跡、これからもっともっと長いもの

それはただ真っすぐではなく大きくおおまわり曲がったり、どのような道であっても

あなたはただただあなたを信じ進み続けるただそれだけで良い

わたくし達の父・神がそうおっしゃつている

いつもあなたを見ているとその神があなたを可愛い我が子とおっしゃつている。

どうか父やわたくし達のエネルギーをしっかり感じてください。

あなたは素晴らしいライトワーカーであり、これからもますますもっともっとご自分であなたがしたいと思う

だけ輝き活躍をしていただたく

それはすべてあなたが意図する範囲であるわけで

あなたのそのソール(魂)は常に光輝いていたいと

そして自分を最大限表現し、それは永遠だとおっしゃつている

それを皆さんのお伝えしたい

あなたはどう思われますか?

あなたはすでに私と繋がっている。

これからも続くでしょう。

あなたは素晴らしい神の恩寵であり神の子であるのです。

あなた自身があなたのその存在をその素晴らしい存在と認めることから始めてください。

あなたはすべてのお手本となる素晴らしい方なのです。

あなたのその思い込み私とアシュータの光、そしてラファエル大天使マイケルの光でどうか癒されてください。

あなたはジャーメインバイオレットのフレームでしっかり癒されてしっかり浄化されているのです。

あなたがこうしていま、人と存在している事すべて意味があり、そして偉大な事であると

そしてあなたという存在が神のもっとも素晴らしい恩寵とするという事を認め事ができます。

あなたが素晴らしい存在・あなたは偉大な光なのです。

それを認める事

わたくしはジーザスです。

いくら心に思ったとしても、何も行動しなかったなら何もならない。

ただ何かをしたから何かなると思ったなら何にもならない。

何もならないのなら何もしないほうがましと思ったならもっと何もならない。

ただその何もならない事をただして行くだけで良いのですパー

無理することなく少しずつ、自分でできる範囲で良いのです。

自分の持論は高い霊性を持ちたい、持ち続ける事が高い霊性に繋がって行くと思っているのです。 

たかだか人生80年の寿命かもしれないけどね!?

どっちに転んで見ても御命だとしても自分の為だけに生きるのではなくて、

他の方の為になれる事をしていけば、きっと調和とやすらぎのある人生をおくる事になるのではないでしょうか!!

人間は霊性を持った存在だとされているのですが、自分をせーいっぱい輝き表現して行きたいのなら

思っただけではダメ、行動していかないとね。

本当に心から思ったなら、行動しているはずですね。ニコニコ



聖書 ルカによる福音書6章31~36 (旧約 エゼキエル書16章6) 

31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 

32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 

33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 

34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 

35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。

そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 

36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 
 

https://www.cira.kyoto-u.ac.jp/j/fund/

意識的になる?

ではどうすれば意識を拡大できるか?

人間が意識を拡大するいちばん手っ取り早い方法は、自分が「意識」をもっているという事実に意識的になることだそうです。

明日の神(ニール・ドナルド・ウォルシュ)引用


確か(見性)体験後は意識的になったようです。

ただし自分は体験をしてから、自然に無理することなく意識的になったけどねパー

明日の神に記載されているように、自分でもできる方は一つ一つ意識的するように

まずは自分自身を意識的に、自分に気づき自分を認識して意識的にするようにしてはどうだろうか!?

意識して行うと言う事でしようかはてなマーク


意識が変わっていく 光のかけ橋
2013-05-03 12:37:34
テーマ: 心の世界と繋がる癒しのエネルギーブログ
小鳥のさえずりや道端で咲いている花、一滴の滴る音、

カエルの声やコオロギの声を聴いている空間を聞き、そこなわず聞き知る、

聞こうと思う念をこらして、また聞こうと思う念を生じて聞くというは、

仏心で聞くという事みたいです!?

このように自覚体験があって衆生は本来仏と自覚するのです。

一瞬の飛躍が境界線越えて、崩れすべてが合理的ではない理屈と、

そういう体験を持ったと記憶が残るのです。

その後は日々の意識が変わっていくような感じがしますグッド!

和尚さんがこう言った事がありました。

誰もが眼にとまる美しい大輪の花を愛するけど、

誰にも気にされず、誰の眼にとまらないひそかに咲いている

この小さな花の美しさは誰にも解からない。

見向きもされないけど、立派に咲いている。

この小さくてもひっそり咲いている、花を愛するようなものにならなくてはならないと和尚さんは言っていましたパー


またこの小さく咲いている花を誰も見ようとせず、

後ろで啼いている蝉の声も聞こうと思う心を持って聞く方は、

自分が仏性を持った仏と言う事を悟っている方と思います。



不生の仏心で聞く  光のかけ橋

テーマ:心の世界と繋がる癒しのエネルギーブログ

2011-12-22 19:27:15 
説法を聞いている時に蝉の声や田んぼの中で鳴くカエルを聞こうと思う、

心を持って聞いたというものはこの道場には一人もいない。

聞こうと思う念を生じていた故に聞いたというのは、

これを仏心で聞くという事みたいです

仏性というものは人間のすべてめいめいの上に豊かに具わっているもので、衆生は本来仏です。

けれども修行しないと現れないし、それを自覚体験しないと攫む事は出来ないと言う事だと思います。

修せざるには現れずといいますからね。

ただ骨組みと筋肉でねらって実際に座るという事が大切です。

因果関係を静かな目でみていながら、それをふりまわされず、

思いを手放し、祗管打座「ただ座禅している」という事が大切です


道元に、聞くままに、心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水という歌があります。

無心で座禅をしていると雨だれの音を聞いて、

自己を忘れて、無心に聞く時、軒の玉水がそのまま自己であったというのです。

自己を忘れた時、方法に証せられる。

無相の自己を悟らされるということなんだそうです


秋月りょうみん禅師の禅のことばに記載されています。

仏性は不生にして霊明なもの

盤珪はいう。

後ろで啼くすずめの声を鳥の声とも聞きたがわず、鐘の声を太鼓の声とも聞きたがわず、

男の声を女の声とも、大人の声を子供の声とも聞きたがわず、

そけぞれの声を一つも聞きたがわず、明らかに通じて分れて、

聞きそこなわず聞き知るは、霊明の徳用(功徳のある働き)と申す。ものでござるわす。

これがすなわち仏心は不生にして霊明なものといいます。

霊明の証拠でござるわい。


只今この座にござる人に、(われは聞こうと思う念を生じていた故に聞いた)という人は、
この場に一人もござるまい。

皆こちらに向いて、身どもがいうことを耳に傾けてよく聞こうとこそしてござれ、

後ろでそれぞれの声のするを聞こうと思うてござる人は、一人もありゃしませぬわい。

したにそよっと不時にそれぞれの声がすれば、通じて分れて聞きたがわずに聞こえますは、

(不生の仏心で聞く)というものでござるわい。

(前方からそれぞれの声がせば、)聞こうと思う念を生じていた故に聞いたという人は一人もこの座にはござらぬ。

それならば(不生の仏心で聞くというものでござるわい)後ろのセミの

 
 
人類との対話〈2〉たったひとつの大切なこと 単行本 ? 2014/4/1
ニール・ドナルド ウォルシュ (著),? Neale Donald Walsch (原著),? 飯島 奈美 (翻訳)
 
意識が広がれば、あなたの精神と魂はひとつになり経験と目覚めが出会う。
ではどうすれば出会えるだろう。
そのためにはまず、意識を広げる。
ことができるのは選ばれたごく少数の人だけだ、と言う考えを捨てなければならない。
意識を広げるのはとても簡単なことだ。
地球上の誰もが行っている。
子供たちさえしている。
特に幼い子供たちのほうがしているのだ。
あなたの意識が広がるのは、。。。。

・ある瞬間にだけ起こる(不意に)
・時々起こる(短い時間だか集中して)
・定期的に起こる。(何ケ月、何年にわたって)
・断続して起きる(生涯を終えるまで、途切れることなくずっと)

最初のグループに属するのは「顕現」を経験したと言われている人。いずれ(追求者)になるであろう。
 
二番目のグループに属するのは「目覚め」(顕現が断続するとも言えるを経験したと言割れる人。いずれ(研究者)になるであろう人々た。
 
三番目のグループに属するのは高いレベルの意識に到達したと言われる人。いずれ(メッセンジャー)やマスターになるであろう人々だ。
 
四番目のグループは(悟り)を得たと言われる人、そう呼ばれることを嫌う人もあるが、いがれ聖人になるであろう人々だ。
 
心が自由になって意識が広がって行く
2016-12-12 06:53:09 光のかけ橋
テーマ: 心の世界と繋がる癒しのエネルギーブログ
前に日記に書いた事がありました。
第三の眼が開花する前には眉間に蟻のくすぐり、眉間あたりからスースーするような感覚があったりするかなと思います。
入浴時に湯船につかって居る時やリラックスしている時などは光点がポツリと出現したりしますと書いた事がありました。
第三の眼が出現する前の初期に現れたりする症状なのかもしれません
ある方のブログを見たら、サードアイ・第三の目をある方に開いて貰ったような事が書かれていました。
鏡を見たら眉間の間に目があって、第三の目って 横向きだと思ったのだけど、それが縦だったんだ
それからと言うと直観が強くなったみたいな事を書かれていました
いちがいには言われないけど、鏡に映った顔を見ると眉間の間に目があったみたいだけど、
自分の持論は横向き縦向きはどうかしても、鏡に映った自分の眉間あたりも
眼をつむって、暗闇に中であろうともずつと泡の渦のような眼?
くっきり眼が見えるのです
だから眼を開けても、瞑ってもその眼は見える
横も縦と言うよりも第三の眼は眼を開けても、瞑っても眼は見える

ただ、それだけでは駄目というよりも心解放、心の自由、意識が広がりガラス越しから外に出て広がっていかないといけないのです
ただ思うのだけどね。体験だけで目覚める言うのにはどうですか
まず、そんな事よりも心を解放して行かないといけないんです。
蝶がガラスごとしに外に出て行こうと思っても、外に出て行かれないのと同じなんです。
このガラスごしから自由になって、外界に羽ばたいて行かないと自由にはなれないのです。
ガラスごとを破って、外の空間に出ていかないといけないのです。
心が自由になってその意識が広がっていかないといけませんね。
でないといつまで経っても 蝶は外界に羽ばたく事はできなくて自由に空に飛び立つ事はできないのです。
ガラスの枠を取り外して、ガラス越しから飛んでいかないとね
それには横向きだ縦向きに開いたと言ってもね。
心解放、心が自由になって、意識が広がっていかないといけないのです。
それには開いた、完成したと思ってもまだまだ先はあるのです。
そこに留まる事をしないで、瞑想を続ける事が大切なのですね
 
フローレンス・ナイチンゲール
人生を二度、生きることが出来たらどんなにいいか。一度は過ちを犯すため、二度目は犯した過ちから学ぶために
 
罪の重たさや軽さは別にしても誰にでも過ちはあります。
自分なんかは褒められる生き方はしてなくて、反吐がでるぐらいの生き方をしてきました。パー
決して褒められるような事はしていなかった!!
そんな自分が悟り(見性)や明けの明星など体験を書いていますが、インターネットで検索して見ても他にいないようで、
ほんと自分がそんな事を書いている自体が不思議ですね。
ほんと自分が見て来た方などは、自分の事を知っている方などは、まったく信じないと思いますねグッド!
社会的に現実から逃げて、宗教にはしったと思うのでしようかね
運が良くそんな体験をしただけ、いまさらそんな事を言ってもと?
自分がそのような体験を言っていると、そんな見方やそのような枠としか見られないのは仕方がないのでしょうね。

天然真珠は偶然入った小さな異物を核にして(無核もある)、長年の年月を掛けて真珠層が形成されると言います。
人も同じような事かもしれませんね。
でも偶然運良く体験できたと言うのはないのですが?
でもそりゃ~ある方にとっては?そうとうの苦しみを背負う事になります!?
真珠貝のように中に入った異物があれば苦しみながら毒を吐き続ける事になるのです!!
だから偶然もない。運良かったのでもないのです。
自分が身を持って体験をして、縁あっての方の為になれればと思って設定して生まれて来たようです。
でも自分だけじゃあないのです。
ただこんな体験や運命を背負って、それを乗り越えて身を持ってしめす方はそんなに多くいないと思います。

バーソロミューの書物に書かれている内容を見てほしいのです。
フランチェスコはどんな罪深い行いをしたと言われる彼が、悟りを開かれたと言う事です。
それは全身が疑問のかたまりのようになって、何日も苦しみが続き、不安が増し、悩み続けた結果光明を得たというものです。
その鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・悟ったのです!!
開祖や一部の修行者と言われる方はこのような道を通って行ったのです。
 
なぜそんな事が解るのかと言いますと、体験すれば経典の意味なども理解できたりするのですパー
書物に書かれている内容を見たら、これは悟り(見性)体験以外なにものでもないと思います。
ただね、悟り(見性)体験など書いたら、自画自賛だと思う方もいるかもしれないけど、
自分がそんな体験をすれば、きっと解ると思います。
これは新な始まりだと、ここで立ち止まる事はしないと思います。
ただ悟り(見性)を開いたから、おしまいではないのですグッド!
ここを勘違いしないで、これは新たな始まりです。
でも申し上げたい事は、もし体験をしてもこれまでの生き方をガラッと変わらないとね。
そう生き方が変わらなかったらそれは目覚めてないと言う事になりますニコニコ
そんな体験は根底をくつろがすほど、その体験が心の意識を変容させるほど衝撃的なものになると思いますはてなマーク

神人合一体験は不立文字です。
一種の三昧になって、神の力との合一がおこる
※対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかに、悟りが開けるかどうかに掛っているのです!!

本当に悟ったかどうかは別にしても、そういう方に限って教祖になったり、お金集めに一生懸命になった、挙句の果て愛人を囲む方が結構多くてねショック!
すぴ系に良くない前例が結構ありますからね。
だけどももしほんとうに体験したと言っておるのであるならば、この事をしっかり心の道標にしておかないとね!!

コリントの信徒への手紙一13章1-3節
山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しいと言う事を心に留めておかないと間違いを犯すようになるかもしれませんから、
謙虚に生きていかないと何にもならない事になってしまうかもしれません。

リントの信徒への手紙一13章1-3節
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいドラ、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」

実るほど頭の下がる稲穂かな
稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人も人格者や学問にすぐれている人ほど謙虚であるということ。

米は実が入れば俯く、人間は実が入れば仰向く/人間は実が入れば仰向く、菩薩は実が入れば俯く/実の入る稲は穂を垂れる/実る稲田は頭垂る/実るほど頭を垂れる稲穂かな
どんなに汚れた思えても、清浄なる本性、心の空性は清浄空である本性は、けっして失われたり、そこなったり、曇ったりすることはないと言う事ですね!!
誰であっても想念帯の中に付着したネガティヴな抑圧されたエネルギーを取り除き本来の自分を取り戻す事はできるのです。
鏡が汚れたなら、その汚れをふき取りすれば鏡に写る現象はそのままを写すのです。
また水面に映し出されたお月さんは波風がなくなったら綺麗に水面にお月さんそのものを映す事ができるのです。
もうひとつニコニコ
現象として表れていなくても、水面は風や波で荒く波立っているけど、水面深く底は穏やかであっても
その底にはドラマの筋書きと言う原稿用紙が誰にでもちやんと持っているのですグッド!
ネガティヴなものやポジティヴなものもこれらの筋書きがちゃんと書かれていて、いつかは現実世界に現れてくるのです。
その書かれているドラマの筋書きの原稿用紙は、他の誰でもなく自分自身が書いているのですパー

■ どんなに汚れがあったとしても人は再生できますパー
人間は生きている限り想念と行為を記憶し続けています。
本来真っ白な何もない無垢な想念帯を持って生まれて来ましたが、
生まれてこのかた想念帯に色々な思い行いが撮影されているのです。
また別の言い方では心の奥底に横たわっているドラマの筋書きが書かれている原稿用紙を誰もが持っているのです。
まるでテープレコダーのように一瞬、一瞬記憶され録音されているのです。
自分などはカルマを開いていますから、悟り(見性)体験後その時にカルマの洗い直しが起こってきました。
まるでテープの逆戻しみたいで、身体器官やチャクラの箇所からタカの爪みたいに深く食い込んでいる抑圧されているエネルギーが、
ほんと沸いては消え頭上に上がって、空間に解き放されて行きました。

想念帯には、カルマの巣みたいにサイダーの泡如くエネルギーが詰まっています。
サイダーの栓を抜いて、その中からいっぱいのカルマのエネルギーがサイダーの泡如くあがってきます。
これらの抑圧されている感情エネルギーを解放する事が、本来の自分を取り戻す事になるのです!
奥深くしまいこんでいる、また抑えつけていた感情エネルギーをもう一度、湖面に(意識)上に浮上させ解放してやれば、罪や穢れは浄化されて行くのです!!
ただ、想念帯を開く事は現在では難しいかもしれませんが?
日頃あまりおめに拘わりたくない奥深く溜めつづけた、(不安恐れ、悲しみ、憤り、憎しみ)
また抑えつけていた反吐がでるような、誰にもみせる事のできない秘密が誰にもあると思いますが、
もう一度過ぎ去った過去を省みて、抑圧することなくあるがまま手放しをしていけば良いと思います。
誰でも見たくもない聞きたくもない心の奥深くしまったものを直面する事はとても苦しい事です。
でも誤魔化し続けて押さえつけていれば、火山の如くいつかは爆発するでしよう。
それで事済めばよいのだけど、そんなに甘くはないと思います。
いつまでも回り続ける事にもなりかねないはてなマーク
もし輪廻転生があるとすれば、非常に重大だとお解りいただけると思います。
そうじゃあなくても、次の世界に還った時の事を考えたら、少しで付着したものをもそり落とす事がどんなに大切な事か!?
だから心の問題を克服し新たに良いカルマを(思い行い)を作っていける事が生まれて来た意味もあると思うのですけどね。

まいど何回も私は言いますねニコニコ
どんなに汚れた思えても、清浄なる本性、心の空性は清浄空である本性は、
けっして失われたり、そこなったり、曇ったりすることはないと思います。
気体(蒸気)になったり、液体(水)から固体(氷)というように、三つの相に変化する。
気体、液体、固体という三つの相に変化しても、水の本性H2Oには変わらないといっています。
水は低温になったら固体(氷)となります。
また水は高温度(蒸気)になって沸騰したら、水蒸気になり、また雨となって地上に
降下によって再び液体(水)や固体(氷)に変わります。
気体、液体、固体という三つの相に変化しても、水の本性H2Oには変わらないようです。。
想念体に例えるなら、気体、液体、固体という三つの相に変化するように、
想念の集められた物のエネルギ―も変化していくと思っています。

その心の紐を解くと、心の奥底に横たわっているドラマの筋書きが書かれている原稿用紙を誰もが持っているのですグッド!
原稿用紙は他の誰でもなく、自分が書かれたのです。
輪廻転生とか言えば、まばつゆものとしか思われないけど、
感情の病気や原因不明の病気など殆どが、深層意識の中にある抑圧されているエネルギーなのです!!
その抑圧されている感情のエネルギーは自然と消えてはいかないのです。
深層意識の中で異熟され、いつかは顔面に躍り出て来るのです。
軽いものなら中和されて、あまり影響が少なく済むかもしれないけど、強い抑圧されている感情エネルギーなど
身体や性格に強く色こく現れているのではと思っているのです。
また自己中心な方や我の強い方などは気質として現れているようですが、カルマと言うよりもカルマの巣にネガティヴなものを詰め込んでいるのです
自分では自然過ぎて自分で解らないから、それがあたり前と思っているショック!
でも、それらが霧が晴れるように消えてなくなったりしていけば、そうのような癖や気質があったのかと気づく事になると思いますグッド!
今気づく事になく改善する事もしないで、その気質持って次の行く世界に行くのは損ですよね。
同魂、類は友を呼ぶ法則がありますが、その同魂が集まっている世界に還るのです!?
もし自分で改善していきたい思ったなら、想念帯を綺麗に浄化していけば良いのですね。
ほんと超作していけば、そのような癖として表れているカルマも少しずつ解けて行って改善されていきます!!
その為には気づきがあって、心から反省をしてもう二度と同じ過ちはしない事からスタートすれば良いのです。
ただ心から反省しないで、奉仕活動やボランティヤをしていても、何もならないと思っているのです。
それはもしかして天に行く切符を狙っている方もいるかもしれません。
それでは何もならないのです。
もしそうであるならば、動物習性を取り除き、我を取り除く事がいかに大事がお解りだと思います。
それには超作していくのが良いのですパー
ほんとうの宝物はいくら探して見てもどこにもない。
心の調和とやすらぎこそが宝物なのですニコニコ

だれでも自分を高くする者は低くされ自分を低くする者は高くされるからです。
ルカの福音書18章14節

(マタイによる福音18章2節)小池二郎神父著『吉報』巻頭言集 より
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
(マタイによる福音18章1節‐5節)
思いは結果、化けてくると言う言葉があります!?
顕在意識と潜在能力には隔ててある壁があるのです。
その一部が崩れてしまうと、それまでに抑え付けられていた心の中の抑圧されているエネルギーが顕在意識の表面に上がって行くのですグッド!
奥の底から少しずつ湧き上がって行き、上昇するにつけ圧力は次第に大きくなっていきます。
そして水面(意識)まで上がってくると、それがある種のエネルギーだと解ります。
その潜在意識の上層からダムの堰を切ったように、エネルギーの噴出が起こります。
やがてこれまで閉じ込められていた下層から、徐々にダムの堰を切ったようにエネルギーの噴出になります。
これは良く自分はこのように言っています。瞑想とかしていて、期が熟されたなら、
想念体に亀裂がはいって、サイダーの泡如く堰を切ったように湧き上がって行きますパー
その泡をで尽くせれば、それから精妙な状態を超えて、最後には純粋意識の状態に到達するようです。
ここまで達成する方はあまりいないように思います。

もう一つは観念を見つめる作業を行っていけば、
少しずつブロックが解除されていくとその下にある観念が徐々になくなって行くと、
すると同じようなエネルギー解放が起こって行くのではと思います。
最初の壁が消えてしまうと、その上層からダムの堰を切ったようにエネルギーの噴出がおこり、
徐々に下層までエネルギーが解放されていくのだと思います。
 
苦を滅する道があるとお釈迦が説いておられますが、
お釈迦様と言えば、また宗教とかある色で見られるが大多数だからねはてなマーク
お釈迦様と言う名前に囚われないで、そうではなくて一人の人間が心の紐を解いて、苦を滅する道がある
その人間の生き方を説いているのです。
それを伝える事、教えて伝えている偉大な人間であるのです。
自分などは悟り(見性)体験を書いたりしていますが、これはカルマや心の紐を解く事に関係があるのです。
体験すれば理解ができるのですが、悟り(見性)体験後にカルマのが噴出してくるのですパー
俗にいうカルマの洗い直し
不思議とスピ系で悟り(見性)体験と言っている方は、そんな悟り(見性)体験後にカルマのが噴出の事を言う方はいないようですねはてなマーク
でも自分だけが特殊ではないのですが、ただ自分が通った道は宗教体験であろうと思います。
これは開祖や一部の修行者が体験して通った道なのです。
それを自分がただ言っているだけに過ぎないのです。
だから勘違いだけはしないでほしいのです。
自分は特別でもなく、偉くも立派でもないのです。
役目と言うよりも、役割りと言うのも言いたくはないから自分はいいません。
理由は種類や形は違いども誰であろうとも、使命や役割りがありますからねグッド!
自分のように汚れて、どうにもならないような人間であったとしも!?蓮のように花を咲かせられる事を伝えたいのですニコニコ

心の図書館(引用)
泥水が濃ければ濃いほど、はすの花は大輪の花を咲かせます。
泥水とは人生におきかえれば、つらいこと、悲しいこと、大変なことです。
ほとんど泥水ではなく、真水に近いようなきれいな水である場合、
蓮の花は本当に小さな花しか咲かせません。
大輪の花を咲かせるためには、ものすごく汚い泥水が必要です。
蓮の花は泥水の中からしか立ち上がってこないのです。

心の図書館に記載されているように、泥水が濃ければ濃いほど綺麗な大輪の花を咲かせられるのです
バケツの中に、押し込められたボールはその圧力の反動によって、小さくもあり、大きくもなります。
深く押し込まれたボールはより高く上るのです。
そんな罪穢れを持っているあなたは誰よりも高く上れる可能性を持っていると言えます。
体験とするならば間違った道はないと思いますが、もし迷った道であるとするならば引き帰せば良いんです
途中で、谷に落っこちたり、怪我して歩けなくなった時は、傷が癒えるまで居れば良いのです。
旅の途中には、スカッとする風景もあり、長く続くトンネルもあります。
また眼を覆いたくなる事もありますが、一つのべろーんとした風景で見て、
人生は全体で象(かたど)っているのです