三体一体の言葉を使うのは適切かどうか解らないですけど、神仏、師、我 三つのものが一つになること

どれ一つ欠けても悟り(見性)成就はできないと思います。

やはり開ける方はあらゆる時代に修行して来たみたいですね。

だからと言って、今世が悟り(見性)成就ができないと言う事はないと思いますパー

誰であっても 求めるものは可能性はあるのです。


マタイによる福音書 7章7~11節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。

魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。

まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。


人間は神の子、すぺて平等に神性が備わっているのです。

それと悟り(見性)をしたからすべてが終わりではないのです。

その後が大切なのです!!

神仏のご加護、師の恩恵によってのみ開ける事になると言っても過言ではないと思っています。


自分は座禅道場でたった一回の接心で開かせて貰いました。

これは非常に稀な部類に入るのかもしれません。

後にも先にもたった一回で開いた者がいると聞いた事はないのです。

それが出家ではなく在家として、普通の生活をしながら接心に参加したのです。

これがどんなに稀に見る体験であるかどうか解ると思います。


時の始まりからから現在まで、いくどなく沢山の修行者がいました。

それでも正道を歩んで修行され、素質のある方が悟り(見性)体験をされたと聞きます。

それは伝説の中で言い伝えられているものですから、そんなに簡単に体験できるものではないのです。

自分の体験上、師が居ない方は開く事は難しいと思っています!!

神仏に導かれ、師の恩恵によって開かさせて貰ったのです。


あらゆる情報が飛び交い粗い波動社会の複雑な世界に居ては、到底無理のように感じがします。

だから出家して、社会と遮断して修行して行かないとなかなか開く事はできないと思いますが、

在家として、開く事はなお奇跡中の奇跡なのかもしれません。

だからこそこんな自分に体験させてくれた神仏や師には並みならぬ思いを持っているのです。

それに神仏や師には御恩を報いる為には、自分は何をしなくてはならないか?

神仏に貰ったものは神仏に返さなくてはなりません。

それが自分にとって神仏に報いる恩返しにもなると思っています。

自分が体験した事は非常に稀な部類に入るのかもしれません。

でも、こんな自分は素質はなく、エリートでもなくインテリ―でもない自分が体験できたと言う事は、

誰であってもそんな体験が出来るのですグッド!

それを見せているのが神仏なのです。

だから古庵が偉い存在ではないのです。

こんな古庵でも体験出来たのだから、他の方はもっとうまく出来るのです。

ただ、自分の体験した事を宗教と決めつけないでほしいのです。

一回きりの人生なら何も言いません。

もし輪廻転生があるのなら、心の進化成長は欠かせないのです。

自分はカルマの巣というものをを開けているから、心の成長がいかに大切なのか良く解っています。

だからあまり宗教とかスぴ系に囚われないで、調和と安らぎのある人生を歩んでほしいのです。

その為には真理を実践して行ってほしいと思っています。

心の手綱をしっかり持って、正道を歩んでください。

また真理と言う言葉を使えば、あまり良くないイメージを持たれてしまうかもしれませんが、

真理とは自然の法則にかなっていますから、幸せになりたいと思ったならまず真理を実践してください。

この世に生まれて富繁栄を築いても、そんなものは一時的なものです。

この世はあっと言う間に、過ぎ去ってしまうものです。

次の世界に持って帰れるものは、想念体に刻んだ記憶・思い行いしかないのです。

その為には自己中心的な我を捨て、動物習性を取り除いてデコボコした心をまあるい心にしていかないといけませんパー

本当の成功法則は、天の蔵に徳を積む事こそが本当の成功なのです!!


2014-06-28 10:00:23 光のかけ橋
テーマ:心の世界と繋がる癒しのエネルギーブログ

黄檗禅師は思念をやめ思慮なくせば、仏は自然現れると説いていますね。

精神集中に集中と言う言葉が妥当かどうか疑問ですが!?

精神集中と言えば、一生懸命に目の前にある壁を睨み付けている事が精神集中だと頑張っていた方がいました。

実際は精神集中している自分をも対象をポンと捨てないと開けてこないのです。

これは壁を睨み付けている頑張っている自分をも捨てないといけないと思います!!

禅的には正しい坐相をねらって筋肉と骨格で、思いを手放し

雑念にふりまわされず、祗管打坐して行く事が大事だと言う事になるのではと思います。

また、マントラを捉えている方は、雑念を捨てて、マントラに成り切る事だと思います。


精神集中に集中できている自分をも対象をポンと捨てないと開けてこない

集中できている自分もポンと捨てないと、悟りの手前までもう少しと言うところまで来ている状態なのに

元のもくやみになってしまいます。

それには神仏のご加護・師の恩恵なくして到底達成はできないと何回も自分は言っていますが、

体験すればきっと理解ができると思いますよ。

自分一人では到底達成できないと後からつくづく思い知らされますね。

これは宗教だからと拒否反応をしめす方もいると思いますが、そういうものだとしか言えません!

正しい坐相をねらって、思いを手放し雑念にふりまわされず、続けて行くと、

普通の意識状態を超え、意識の限界に達した時、意識の境界線を越えて、

最後に一瞬の飛躍があり、主体と客体の合一な体験をする事になるかもしれません。