対象物に溶け込み一体となる、対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかが分かれ目だと思います。

正しい坐相によって、自分が対象物に溶け込み一体となることが、主体と客体の合一な体験でありますニコニコ


道元入門 秋月 龍珉

道元はこのようにおっしゃつていますね。

人がものそのものなりきって、(ものになる)ついに彼のスキーもものになった、

実在の活動が最も純粋に持続されている時は、自己も意識されません。

私達の身体でもそうです。

胃が悪くなると、人は胃を意識します。

質実の自己が働いている時は、自己は忘れられています。

これが(無心)とも(無我)とも言います。

道元に(聞くままに、また心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水)と言う歌があります。

自己を忘れてー無心に聞く時、軒の玉水がそのまま自己であったと言うのです。パー



■ 結果を求めるのではなくて、なりゆきが大切

光のかけ橋 Date: 2012-06-06 (Wed)

開悟といっても、迷っていたのがいま悟りを開いたというのではない。

本来ひらいている悟りをいまここでひらく。これが開悟です。

またこう言う事を言う人が必ず出てくるんですよね。

本来悟りを開いているのなら、何もしなくても悟っているんだから、何もしなくても良いと言っている方もいましたが、

いいですか?本来ひらいている悟りをいまここでひらく。これが開悟です。

だからここを勘違いしてはいけません。


悟りというものは悟りたいと思っているうちは悟れないんです。

自分の言っている事はなかなか理解できないかなと思います。

悟り、悟るとか?そう言っているうちは開けないと老師や覚者も言っておられますね。

悟りを目指して。悟りたいと思っているうちは悟れないと思います。

弓道は的は狙ったりすると矢は外れると聞きます。

いかに自然体が大切だと言っていました。

結果を狙えば、的は外れると思います。

結果を求めるのではなくて、なりゆきが大切だと思います。

これは悟りに関わらず何事に対しても同じ事だと思います。


その悟りたいという執着を手放しにしないと悟り(見性)体験はできないかと思います。

その意味においては覚醒や悟り(見性)を開くのに何も必要なものはなく、足りないものもありませんが、

だからと言って足りないものはないし、今のままで完璧だからと悟らなくともよいと言うのではありません。


覚者は悟りといっているうちは悟れないと言っていますが、完璧だから何もしなくて良いとは言っていないんです。

悟りにこだわるから悟れないと言っているだけなんです。

その為には必要なものもないし、足らないものはないといっているに過ぎません。