[137] 素質の劣っている人でも悟れるか? Date:2011-05-21 (Sat) 光のかけ橋
弁道話の中に道元禅師はこう言っています。
インドや中国のような文化の優れた所に住んでいる人間は、悟る事ができるでしょうが、
国土も素質も劣った人でも悟る事ができるでしょうかと言う問いに、道元禅師はこう言いました。
人は素質の劣っている人も優れた方でも、区別なく等しく悟る事が間違いなく出来ると言うのです。
仏法伝授する事は本当に悟った人を師匠にとせねばならない。
文字のせんさくに明けくれる学者は、師匠とするには不足である。
それでは盲が大勢の盲を導くものようなものです。
これらは一部の修行者や開祖が通っていったのです。
その開祖が通って行った足跡を辿っていけば、必ず体験はできると思いますが
それには師や神仏のご加護、何よりも求道心が目覚め(悟り)を開かせるのです
お釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされた
それを見て摩詞迦葉尊者ただ一人だけが微笑まれたと言うものですが、
お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心に伝わっていったのです。
この心から心へと、直接体験によってのみ伝えられ
師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならないと言うものです。
それほど、今の時代で開く事は無図解し事のようです。
師や神仏の恩恵なくしては到底達成できないと思います
この体験をした方は、霊能者や修行者でもあまりいないのです。
それに宗教団体の主催者や会長さんと言われている方でも体験として語っている方はいないのです
だから信者が沢山いて、立派な主催者といえども、普通の方でも悟る事は等しく出来るのです
これらの体験は一部の求道者や修行者と言われる方が期が熟し体験したものです。
また開祖が通って行った道なのです。
また古庵がこんな体験の事を言うと、勘違いする方もいますが、
開いたから偉いとか?特別な存在だと勘違いはしないでください。
たとえ開いても、高い霊性が伴っているとはまた別なことなのです。
広大無変な悟りの世界では、いくつも壁が聳え立っているのです。
これを開いたからおしまいではないのです。
その次の関門があるのです
クンダリニー覚醒にしても、覚醒したから、すなわち大師や聖人になれるのではないのです。
菩薩行にしても無理なく神理実践を出来た時に菩薩行が整って行くのです
だから自分が開いても、別に偉くもないのです。
高い霊性があるとは別な事なのです。
その奇跡体験を古庵が体験出来た事は、師や神仏のご加護なくしては成り立たなかったのです。
そりよりも古庵みたいな者でも、開く事ができるのだから
誰であってもでも開く事が出来ると神仏が見せているだけなのです
今の時代では悟れるのは難しいと言われます
沢山の修行僧がいて、深山深く山寺などでもくもく修行されています。
それでも悟り(見性)を開く事は稀にしかいない
ある別な宗教なのだけど、その本山の道場では何名かぐらいは精神分裂したりすると聞きました。
沢山の修行者が悟り(見性)開く事を願って一生懸命に坐ったりしていますが、
ある本山の修行僧が、夜中田んぼをかけずり回ったり、お寺でボヤ騒ぎになったりした事がありました。
精神世界を求める方には危険は常に隣り合わせなのです。
特に自己流で座ったり、ちゃんとした師が居ない方はどこが間違っているのかさえも解らなくなっているのです。
この古庵にしても修行者でもなかったのです。
この奇跡体験する方は、殆どが出家されているのです。
そうでないとこれは、開く事は不可能に近いかもしれません。
それほど、過酷と言うよりも奇跡だと思います。
まして古庵は修行僧でもなくて、出家もしていません。
接心と言う集中座禅に参加しました。
この7日間ですべてをかけて坐りました。
この7日間で開かなかったなら、死を決意して望みました。
この死をかけて、坐った心境は誰にも解らないと思います。
言葉で漠然として解らないと思いますが、この時の心境はもうこの先は崖で先がなかったのです。
人は崖っぷちに立たされ追い詰められると本性が現れるのです。
これ以上のない苦痛や試練の中で、追い詰められると魂が目覚めるのです。
だから本当の意味では、試練のない方はより高く上れる事は無図解しのかもしれません。
それまでの自分は修行という事はちゃんとした事がなく、ヨガや密教セミナーとかを受けた程度ぐらいでした。
それで神仏の導きによって接心という集中座禅を行いました。
丁度、3日目ぐらいに開かせて貰いました。
クンダリ二ー覚醒にしても短期間であっと言う間に体験をしいったい自分は何なのか?
何者なのか?と勘違いした事もありました。
如来・菩薩ではないのかと内心思ったりした事もありました。
まぁ~その当時はクンダリニー覚醒にしても、覚醒した方があまりいなくて、
覚醒した方は大師とか?聖人と言った風習みたいなものがありました。
そんな事もありましたけど、その自分に師のご指導によって、全てペシャンコにされました。
ほんとあらゆる魔境に打ち勝つには師なくしては、乗り越えて行くのは難しいのです
もう~あれから何十年が経ちましたが、今の自分にはあの頃のような若さも体力もありません。
もう一度、初めからと言われると不可能に近いと思います。
労老いたから出来ないと言うのではないのだけど、若さはほんと貴重な時間なのです。
若ければ若くて良いと思っているぐらいです。
早いうちから、神理を学んで座ったりして行くとほんと人生は有意義なものになって行くと思います。
警策にしてもそうです。
座禅に集中させる為に警策(けいさく・きょうさく)を叩いたりしている道場もありますが、
これではある意味では集中どころが途切れてしまいます。
姿勢を保つ事がしっかりと集中していると誤解している方もいると思います。
確かに姿勢は大切で、その姿勢で座っているのか?
考え事しているか.
また眠むっているのかわかります。
でも、その姿勢に囚われていたら、姿勢を保つ事がすなわち座禅をしていると勘違いしてしまいます。
でも、せっかく集中しているところに警策で叩かれたら、
悟りの手前までともう少しと言うところまで来ている状態なのに、
元のもくやみになってしまいます。
集中できている自分もポンと捨てないと、悟りの道程の九分九厘迄行っていて、
定から出てくると又元の処に戻ってくる。
そのけいさくに頼ってしまったりすると、叩かれないように坐る事が目的のようになる方もいます。
これでは座禅どころではない。
叩かれないようにしっかり姿勢を保つ事ばかり囚われてしまいます。
でも、警策(けいさく・きょうさく)に頼らずとも、何日間の間には考え事していたり、
眠っていたりする事もありますが、その中ではちゃんと座禅に集中している時があるのです。
それに誰の為にしているのではないですからね。
自分の為にしているのですから、眠るのも考え事しているのも自分なのです。
本山先生は言っておられます。
悟りに達するには、一切への無執着と、行の極で自分と神仏に全託する事こそ肝心
この対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかに、悟りが開けるかどうかに掛っているのです。
精神集中の対象になりきっる程に集中ができているのに、
その集中して対象になりきっている自分をも対象をポンと捨てられないと、
悟りの道程の九分九厘迄行っていて、定から出てくると又元の処に戻ってくる。
悟りの境には達しない。
このポン自分をも精神集中の対象をも捨てる事こそ、
乾坤一擲(けんこんいってき) というか、悟りを開ける一番肝心の所です。
ところで対象になりきっている自分とその対象をポン捨てる事、
そして一躍して悟りの境に入するには、人間だけではでない。
そこに神仏の力が加わらねばできない。
神仏に自分の総てを託する。
任せねばなりません。
その時神様が、その人の自己の殻を破り捨て、高い悟りの境に上げて下さる。
本当にそこまでなりきっているか、菩提心がどれだけ強いか、それは神様しか解らない。
心の確立と霊性の開発
本山博
弁道話の中に道元禅師はこう言っています。
インドや中国のような文化の優れた所に住んでいる人間は、悟る事ができるでしょうが、
国土も素質も劣った人でも悟る事ができるでしょうかと言う問いに、道元禅師はこう言いました。
人は素質の劣っている人も優れた方でも、区別なく等しく悟る事が間違いなく出来ると言うのです。
仏法伝授する事は本当に悟った人を師匠にとせねばならない。
文字のせんさくに明けくれる学者は、師匠とするには不足である。
それでは盲が大勢の盲を導くものようなものです。
これらは一部の修行者や開祖が通っていったのです。
その開祖が通って行った足跡を辿っていけば、必ず体験はできると思いますが
それには師や神仏のご加護、何よりも求道心が目覚め(悟り)を開かせるのです

お釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされた
それを見て摩詞迦葉尊者ただ一人だけが微笑まれたと言うものですが、
お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心に伝わっていったのです。
この心から心へと、直接体験によってのみ伝えられ
師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならないと言うものです。
それほど、今の時代で開く事は無図解し事のようです。
師や神仏の恩恵なくしては到底達成できないと思います

この体験をした方は、霊能者や修行者でもあまりいないのです。
それに宗教団体の主催者や会長さんと言われている方でも体験として語っている方はいないのです

だから信者が沢山いて、立派な主催者といえども、普通の方でも悟る事は等しく出来るのです

これらの体験は一部の求道者や修行者と言われる方が期が熟し体験したものです。
また開祖が通って行った道なのです。
また古庵がこんな体験の事を言うと、勘違いする方もいますが、
開いたから偉いとか?特別な存在だと勘違いはしないでください。
たとえ開いても、高い霊性が伴っているとはまた別なことなのです。
広大無変な悟りの世界では、いくつも壁が聳え立っているのです。
これを開いたからおしまいではないのです。
その次の関門があるのです

クンダリニー覚醒にしても、覚醒したから、すなわち大師や聖人になれるのではないのです。
菩薩行にしても無理なく神理実践を出来た時に菩薩行が整って行くのです

だから自分が開いても、別に偉くもないのです。
高い霊性があるとは別な事なのです。
その奇跡体験を古庵が体験出来た事は、師や神仏のご加護なくしては成り立たなかったのです。
そりよりも古庵みたいな者でも、開く事ができるのだから
誰であってもでも開く事が出来ると神仏が見せているだけなのです

今の時代では悟れるのは難しいと言われます

沢山の修行僧がいて、深山深く山寺などでもくもく修行されています。
それでも悟り(見性)を開く事は稀にしかいない
ある別な宗教なのだけど、その本山の道場では何名かぐらいは精神分裂したりすると聞きました。
沢山の修行者が悟り(見性)開く事を願って一生懸命に坐ったりしていますが、
ある本山の修行僧が、夜中田んぼをかけずり回ったり、お寺でボヤ騒ぎになったりした事がありました。
精神世界を求める方には危険は常に隣り合わせなのです。
特に自己流で座ったり、ちゃんとした師が居ない方はどこが間違っているのかさえも解らなくなっているのです。
この古庵にしても修行者でもなかったのです。
この奇跡体験する方は、殆どが出家されているのです。
そうでないとこれは、開く事は不可能に近いかもしれません。
それほど、過酷と言うよりも奇跡だと思います。
まして古庵は修行僧でもなくて、出家もしていません。
接心と言う集中座禅に参加しました。
この7日間ですべてをかけて坐りました。
この7日間で開かなかったなら、死を決意して望みました。
この死をかけて、坐った心境は誰にも解らないと思います。
言葉で漠然として解らないと思いますが、この時の心境はもうこの先は崖で先がなかったのです。
人は崖っぷちに立たされ追い詰められると本性が現れるのです。
これ以上のない苦痛や試練の中で、追い詰められると魂が目覚めるのです。
だから本当の意味では、試練のない方はより高く上れる事は無図解しのかもしれません。
それまでの自分は修行という事はちゃんとした事がなく、ヨガや密教セミナーとかを受けた程度ぐらいでした。
それで神仏の導きによって接心という集中座禅を行いました。
丁度、3日目ぐらいに開かせて貰いました。
クンダリ二ー覚醒にしても短期間であっと言う間に体験をしいったい自分は何なのか?
何者なのか?と勘違いした事もありました。
如来・菩薩ではないのかと内心思ったりした事もありました。
まぁ~その当時はクンダリニー覚醒にしても、覚醒した方があまりいなくて、
覚醒した方は大師とか?聖人と言った風習みたいなものがありました。
そんな事もありましたけど、その自分に師のご指導によって、全てペシャンコにされました。
ほんとあらゆる魔境に打ち勝つには師なくしては、乗り越えて行くのは難しいのです

もう~あれから何十年が経ちましたが、今の自分にはあの頃のような若さも体力もありません。
もう一度、初めからと言われると不可能に近いと思います。
労老いたから出来ないと言うのではないのだけど、若さはほんと貴重な時間なのです。
若ければ若くて良いと思っているぐらいです。
早いうちから、神理を学んで座ったりして行くとほんと人生は有意義なものになって行くと思います。
警策にしてもそうです。
座禅に集中させる為に警策(けいさく・きょうさく)を叩いたりしている道場もありますが、
これではある意味では集中どころが途切れてしまいます。
姿勢を保つ事がしっかりと集中していると誤解している方もいると思います。
確かに姿勢は大切で、その姿勢で座っているのか?
考え事しているか.
また眠むっているのかわかります。
でも、その姿勢に囚われていたら、姿勢を保つ事がすなわち座禅をしていると勘違いしてしまいます。
でも、せっかく集中しているところに警策で叩かれたら、
悟りの手前までともう少しと言うところまで来ている状態なのに、
元のもくやみになってしまいます。
集中できている自分もポンと捨てないと、悟りの道程の九分九厘迄行っていて、
定から出てくると又元の処に戻ってくる。
そのけいさくに頼ってしまったりすると、叩かれないように坐る事が目的のようになる方もいます。
これでは座禅どころではない。
叩かれないようにしっかり姿勢を保つ事ばかり囚われてしまいます。
でも、警策(けいさく・きょうさく)に頼らずとも、何日間の間には考え事していたり、
眠っていたりする事もありますが、その中ではちゃんと座禅に集中している時があるのです。
それに誰の為にしているのではないですからね。
自分の為にしているのですから、眠るのも考え事しているのも自分なのです。
本山先生は言っておられます。
悟りに達するには、一切への無執着と、行の極で自分と神仏に全託する事こそ肝心
この対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかに、悟りが開けるかどうかに掛っているのです。
精神集中の対象になりきっる程に集中ができているのに、
その集中して対象になりきっている自分をも対象をポンと捨てられないと、
悟りの道程の九分九厘迄行っていて、定から出てくると又元の処に戻ってくる。
悟りの境には達しない。
このポン自分をも精神集中の対象をも捨てる事こそ、
乾坤一擲(けんこんいってき) というか、悟りを開ける一番肝心の所です。
ところで対象になりきっている自分とその対象をポン捨てる事、
そして一躍して悟りの境に入するには、人間だけではでない。
そこに神仏の力が加わらねばできない。
神仏に自分の総てを託する。
任せねばなりません。
その時神様が、その人の自己の殻を破り捨て、高い悟りの境に上げて下さる。
本当にそこまでなりきっているか、菩提心がどれだけ強いか、それは神様しか解らない。
心の確立と霊性の開発
本山博