禅の公案とは代表的な公案集に「無門関」、「碧巌録」「従容録」などがあるみたいですね。
禅問答は知的理解は困難で非合理なものが多いとされています。
自分は禅師でもなく、まして出家の坊主でもありませんから答える立場ではないのですが、
その自分がこんな事を言うべきではない事は解っています
そんな自分は禅の公案をした事はないのですが、自分の理解する限りは意識的に自分を超えるなにものかがあり、
合理的な考えだけが全てではないと言うことかもしれません。
それには座禅によって、自分の本性を悟る事が大切だと思います
まず、結果を求めるのではなくて、なりゆきが大切だと思っています。
量よりも質と言われていますが、確かに質が大切だと思いますが、
それよりもただ、もくもくとして坐って行く事が大切だと思います。
何よりも正道を学んでいる師匠の下で、師の恩恵にて悟りを開く事ができると思います
百丈野鴨子(やおうす)事が誰か解る人はいますかね?
これは修行して、意識の境界線を乗り越えていった方でないと少し難しいかもしれませんねぇ~
もし、理解できるのなら自分が仏だと自覚している方であろうと思います
久しぶりに自分の書いているミクシーの日記を見てみました。
沢山いる中で、一人だけ公案の事についてある事を知っている方がいました。
馬祖「どこへ飛んで行くのか?」
百丈「もうどこかに飛んで行ってしまいましたよ。」
すると馬祖は不意に百丈の鼻柱を引っつかんで捻り上げた。あまりの痛さに百丈はオウオウと泣き始めた。
馬祖「(お前は)もう飛んで行ったと言うが、まだここに居るではないか。」
馬祖は百丈がどこかに飛んで言ったと言うのに、
ここに居ると言った意味が誰か解る人はいますかね?
もし、理解できるのなら自分が仏だと自覚している方であろうと思います
6.20 「碧巌録」53則 : 百丈野鴨子(やおうす)
馬大師(馬祖道一)、百丈(百丈懐海)と行くついで、野鴨子(やおうす)の飛び過ぐるを見る。
馬祖「これなんぞ。」
百丈「野鴨子。」
馬祖「いずれのところにか去る。」
百丈「飛び過ぎ去る。」
馬祖ついに百丈の鼻頭をひねる。百丈忍痛の声をなす。
馬祖「何ぞ曽て飛び去らん。」
?
解釈:
以上の会話を分かり易く現代語に直すと次ぎのようになる。 百丈懐海が師である馬祖(馬祖道一、707~786)と一緒に道を歩いていた。その時野鴨子(雁)の1群が空を飛んでいるのが見えた。
馬祖「あれは何だ?」
百丈「あれは野鴨子(雁)ですよ。」
馬祖「どこへ飛んで行くのか?」
百丈「もうどこかに飛んで行ってしまいましたよ。」
すると馬祖は不意に百丈の鼻柱を引っつかんで捻り上げた。あまりの痛さに百丈はオウオウと泣き始めた。
馬祖「(お前は)もう飛んで行ったと言うが、まだここに居るではないか。」
この時百丈は冷や汗を流して悟りを開いた。
馬祖はこの問答と鼻柱を捻り上げたことによって生じた痛みによって、弟子の百丈に「自己本来の面目(真の自己)」を自覚させ悟らせたのである。
「自己本来の面目」とは痛みを感じる根源であると同時に、空を飛んでいる野鴨子(雁)の1群を見ている自己(=脳)であることが分かる。
馬祖が「(お前は)もう飛んで行ったと言うが、まだここに居るではないか。」と言って「本来の面目」(=脳)を示唆していることからも分かる。
これと似た公案に碧巌録42則の「ホウ居士好雪片片」がある。
禅問答は知的理解は困難で非合理なものが多いとされています。
自分は禅師でもなく、まして出家の坊主でもありませんから答える立場ではないのですが、
その自分がこんな事を言うべきではない事は解っています

そんな自分は禅の公案をした事はないのですが、自分の理解する限りは意識的に自分を超えるなにものかがあり、
合理的な考えだけが全てではないと言うことかもしれません。
それには座禅によって、自分の本性を悟る事が大切だと思います

まず、結果を求めるのではなくて、なりゆきが大切だと思っています。
量よりも質と言われていますが、確かに質が大切だと思いますが、
それよりもただ、もくもくとして坐って行く事が大切だと思います。
何よりも正道を学んでいる師匠の下で、師の恩恵にて悟りを開く事ができると思います

百丈野鴨子(やおうす)事が誰か解る人はいますかね?
これは修行して、意識の境界線を乗り越えていった方でないと少し難しいかもしれませんねぇ~
もし、理解できるのなら自分が仏だと自覚している方であろうと思います

久しぶりに自分の書いているミクシーの日記を見てみました。
沢山いる中で、一人だけ公案の事についてある事を知っている方がいました。
馬祖「どこへ飛んで行くのか?」
百丈「もうどこかに飛んで行ってしまいましたよ。」
すると馬祖は不意に百丈の鼻柱を引っつかんで捻り上げた。あまりの痛さに百丈はオウオウと泣き始めた。
馬祖「(お前は)もう飛んで行ったと言うが、まだここに居るではないか。」
馬祖は百丈がどこかに飛んで言ったと言うのに、
ここに居ると言った意味が誰か解る人はいますかね?
もし、理解できるのなら自分が仏だと自覚している方であろうと思います

6.20 「碧巌録」53則 : 百丈野鴨子(やおうす)
馬大師(馬祖道一)、百丈(百丈懐海)と行くついで、野鴨子(やおうす)の飛び過ぐるを見る。
馬祖「これなんぞ。」
百丈「野鴨子。」
馬祖「いずれのところにか去る。」
百丈「飛び過ぎ去る。」
馬祖ついに百丈の鼻頭をひねる。百丈忍痛の声をなす。
馬祖「何ぞ曽て飛び去らん。」
?
解釈:
以上の会話を分かり易く現代語に直すと次ぎのようになる。 百丈懐海が師である馬祖(馬祖道一、707~786)と一緒に道を歩いていた。その時野鴨子(雁)の1群が空を飛んでいるのが見えた。
馬祖「あれは何だ?」
百丈「あれは野鴨子(雁)ですよ。」
馬祖「どこへ飛んで行くのか?」
百丈「もうどこかに飛んで行ってしまいましたよ。」
すると馬祖は不意に百丈の鼻柱を引っつかんで捻り上げた。あまりの痛さに百丈はオウオウと泣き始めた。
馬祖「(お前は)もう飛んで行ったと言うが、まだここに居るではないか。」
この時百丈は冷や汗を流して悟りを開いた。
馬祖はこの問答と鼻柱を捻り上げたことによって生じた痛みによって、弟子の百丈に「自己本来の面目(真の自己)」を自覚させ悟らせたのである。
「自己本来の面目」とは痛みを感じる根源であると同時に、空を飛んでいる野鴨子(雁)の1群を見ている自己(=脳)であることが分かる。
馬祖が「(お前は)もう飛んで行ったと言うが、まだここに居るではないか。」と言って「本来の面目」(=脳)を示唆していることからも分かる。
これと似た公案に碧巌録42則の「ホウ居士好雪片片」がある。