お釈迦様の時代に沢山の修行者がいても、ただ一人の摩詞迦葉尊者だけがお釈迦様の蓮の意味を理解できたと言う事なんですね。

この悟りの見性とはどんなものなのか!?

秋山さと子さんの悟りの分折を参考にしたら少し感じが解かるかもしれません。

非常に情動的なもので、エックスタシーといえるかどうかわかりませんが、

見性の寸前には、自分がどんな状態であるのかまったくわからないような、一種の忘我状態に入ることはたしかです。

以前、南禅時の柴山老師にうかがったら、最後には師のいる独参の部屋まで歩いて行くのに、

壁に突き当たってやっと曲がり角がわかるというような状態だったと話しておられました。


また山田無門老師もこう述べられています。

隠室に独参して、門答する為に入室しての帰りに、本堂のイチョウを見たときに、飛び上がるほど驚いた。

私の心は忽然ととして開けた。

無は爆発して妙有の世界が現前したのです。

隠寮に走って、参禅したら、公案の問題は出せれたが、その場で解決された。

すべては新しい。すべては美しい。すべては真実です。

すべては光っている、そしてすべては自己である。


自分の体験上、開ける寸前には自分がどんな状態であるのかまったくわからないような状態になるのは確かでした。

何がなんだか解らないような状態になって、異変な状態を意識している自分に気がつきましたが、

それを手放をし、そのような状態から無我の境地になってポンと開けて行く所まで来たときに、

不安と恐れみたいな感情が蘇ってきました。

この盛り上がっていく感情は何回か体験してきましたが、とっさの判断でこの異変な状態から

避けたい気持ちで、自分は避けました。


この感情を避け時に師が見計らって、絶妙なタイミングで開かさして貰いました。

後から考えますと、自分一人ではこの感情を乗り越える事ができなかったと思いました。

自分はクンダリニー覚醒の影響があったから、こう言った異変な状態になった時には無意識で避けてしまようなところがあると思います。

何回かこう言った状態になった事がありましたが、ポンと開ける手前まできているのにまた元のもくやみみたいになっているようでした。

 
これらにはヒョウコが卵から少しずつくちばしを使って、外に出ょうと思っているヒヨコみたいですね。

いっぺんに殻を取り除いたら、ヒヨコはダメージを受け、

死んでしまうみたいです。

だから自分の呼吸で、ゆっくり少しずつ殻を取り除いていかないといけません。

そこを見計らって、親鳥がタイミングよく、殻を少しずつ取り除いていくのでしょ。

このヒヨコと親鳥のように師と弟子の間もこのようなものかもしれませんね。

グルに出会う事がすべてであると言っても過言ではないと何回も言うのはこういう事がありますからね。

神仏や師匠のご加護なくして、開けないと言っていますが、

スピリチャルに限らず、何事もそうですよね。

師の影響は計り知れないものがありますね。

現成公案にもありますが、ひな鳥が親鳥の自由に天空に羽ばたくのを見て、

ひな鳥は羽根をパタパタと習う事であり、先仏を手本にして、後仏がそれ学ぶと言う事があります。


宗教と言うものに手垢がつけられて、拒否反応を持たれている方が大勢いると思います!!

本来の宗教は太陽の如く満遍なく降り注ぐ光のようなものだと思いますが、

その光があれば闇夜を渡るカンテラのようなものです。

闇夜の航海に出るには、必要な羅針盤のようにキリスト様やゴータマ・ブッダの教えの真理が光輝いています。

その光があれば危険な険しい道でも進んでいけるものだと思います。、


今の時代は本来の宗教は捻じ曲げられ、末法の時代だと言われていますが、

人は皆、あらゆる時代を通って学び体験し、少しずつ人間完成に近づいていけるものだと思っています。

その遥か彼方にいるキリスト様やゴ―タマ・ブッタや開祖の通って行った足跡を辿って行く事が大切だと思います。

その真理、正道の大切な事が解からないと、いつまで経っても同じ所を堂々巡りして、

混乱な人生をいつまで経っても抜けて行く事ができません。

宇宙の真理を説いているキリスト様やゴーダマ・ブッタの正法を学び正道を実践してこそ霊性が高まると思います。

仏教は本来明るく誰でも理解できる広いものです。

仏の教えは人間完成への事を教えていると思いますパー


光のかけ橋 日記より

釈尊の教えの真髄は、文字や言葉では伝えることができません

心から心へと、直接体験によってのみ伝えられるとするのが、教外別伝の意味するところです。

したがって、教外別伝とは教のほかに別に伝があるのではなく、

師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることである。

また師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならない とするのが教外別伝の内容と理解していいでしょう。

弟子は、師匠の日常の立ち居振る舞いを見ながら、自己を磨いていくのです。

何事も自分の努力で体得して、初めて自分のものとすることができます。

また、目に見えないものを見抜いて、初めて心から納得することができるのです。

言葉や文字では、究極のところは伝わりません。