説法を聞いている時に蝉の声や田んぼの中で鳴くカエルを聞こうと思う、
心を持って聞いたというものはこの道場には一人もいない。
聞こうと思う念を生じていた故に聞いたというのは、
これを仏心で聞くという事みたいです
仏性というものは人間のすべてめいめいの上に豊かに具わっているもので、衆生は本来仏です。
けれども修行しないと現れないし、それを自覚体験しないと攫む事は出来ないと言う事だと思います。
修せざるには現れずといいますからね。
ただ骨組みと筋肉でねらって実際に座るという事が大切です。
因果関係を静かな目でみていながら、それをふりまわされず、
思いを手放し、祗管打座「ただ座禅している」という事が大切です
道元に、聞くままに、心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水という歌があります。
無心で座禅をしていると雨だれの音を聞いて、
自己を忘れて、無心に聞く時、軒の玉水がそのまま自己であったというのです。
自己を忘れた時、方法に証せられる。
無相の自己を悟らされるということなんだそうです
秋月りょうみん禅師の禅のことばに記載されています。
仏性は不生にして霊明なもの
盤珪はいう。
後ろで啼くすずめの声を鳥の声とも聞きたがわず、鐘の声を太鼓の声とも聞きたがわず、
男の声を女の声とも、大人の声を子供の声とも聞きたがわず、
そけぞれの声を一つも聞きたがわず、明らかに通じて分れて、
聞きそこなわず聞き知るは、霊明の徳用(功徳のある働き)と申す。ものでござるわす。
これがすなわち仏心は不生にして霊明なものといいます。
霊明の証拠でござるわい。
只今この座にござる人に、(われは聞こうと思う念を生じていた故に聞いた)という人は、
この場に一人もござるまい。
皆こちらに向いて、身どもがいうことを耳に傾けてよく聞こうとこそしてござれ、
後ろでそれぞれの声のするを聞こうと思うてござる人は、一人もありゃしませぬわい。
したにそよっと不時にそれぞれの声がすれば、通じて分れて聞きたがわずに聞こえますは、
(不生の仏心で聞く)というものでござるわい。
(前方からそれぞれの声がせば、)聞こうと思う念を生じていた故に聞いたという人は一人もこの座にはござらぬ。
それならば(不生の仏心で聞くというものでござるわい)
「説法前編」
心を持って聞いたというものはこの道場には一人もいない。
聞こうと思う念を生じていた故に聞いたというのは、
これを仏心で聞くという事みたいです

仏性というものは人間のすべてめいめいの上に豊かに具わっているもので、衆生は本来仏です。
けれども修行しないと現れないし、それを自覚体験しないと攫む事は出来ないと言う事だと思います。
修せざるには現れずといいますからね。
ただ骨組みと筋肉でねらって実際に座るという事が大切です。
因果関係を静かな目でみていながら、それをふりまわされず、
思いを手放し、祗管打座「ただ座禅している」という事が大切です

道元に、聞くままに、心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水という歌があります。
無心で座禅をしていると雨だれの音を聞いて、
自己を忘れて、無心に聞く時、軒の玉水がそのまま自己であったというのです。
自己を忘れた時、方法に証せられる。
無相の自己を悟らされるということなんだそうです

秋月りょうみん禅師の禅のことばに記載されています。
仏性は不生にして霊明なもの
盤珪はいう。
後ろで啼くすずめの声を鳥の声とも聞きたがわず、鐘の声を太鼓の声とも聞きたがわず、
男の声を女の声とも、大人の声を子供の声とも聞きたがわず、
そけぞれの声を一つも聞きたがわず、明らかに通じて分れて、
聞きそこなわず聞き知るは、霊明の徳用(功徳のある働き)と申す。ものでござるわす。
これがすなわち仏心は不生にして霊明なものといいます。
霊明の証拠でござるわい。
只今この座にござる人に、(われは聞こうと思う念を生じていた故に聞いた)という人は、
この場に一人もござるまい。
皆こちらに向いて、身どもがいうことを耳に傾けてよく聞こうとこそしてござれ、
後ろでそれぞれの声のするを聞こうと思うてござる人は、一人もありゃしませぬわい。
したにそよっと不時にそれぞれの声がすれば、通じて分れて聞きたがわずに聞こえますは、
(不生の仏心で聞く)というものでござるわい。
(前方からそれぞれの声がせば、)聞こうと思う念を生じていた故に聞いたという人は一人もこの座にはござらぬ。
それならば(不生の仏心で聞くというものでござるわい)
「説法前編」