主体と客体の合一

眼の前にあるのは壁、正しい坐相をねらって筋肉と骨格で、思いを手放し

雑念にふりまわされず、祗管打坐して行く事が大事だと思いますニコニコ

主体とは自分自身のことであり、また客体とは対象物を指します。

それが正しい坐相によって、自分が対象物に溶け込み一体となることが、主体と客体の合一な体験であります。


座禅修行や瞑想においては、スカッとする時もありますし、気分が滅入る事もあります。

曇りには曇りなりに、雨の日には雨の日なりに、晴れの日には晴れなりに、

その時、その時の生理現象、心理状態がある事が当然であり、

それはそれにふりまわされず、その風景として手放しをして行くことが大事だと思います。


内山興正禅師は思いを浮かばなくするというよりというより、因果関係を静かな目で見ていながら、

それにふりまわされず、じっと座っていることこそが大切で、祗管打坐(座禅している)ということなんだそうです。

居眠りせぬよう、考え事にならぬよう、いきいきと覚めて、骨格と筋肉で、正しい坐相をねらって、行くことが大切ですね。

道元禅師は座禅することによって、特別な悟りを開くというより、そのための座禅であってはならない。

つまり座禅する、そのことこそが悟りそのものであり、身心脱落であり、

座禅するということは、この悟りを今ここで実際に修行し、実物するのみだそうです。

まず、きちんとした実相をねらって、座禅をするという事が求められると思います。

他の兼ね合いをやめて、打算をやめて、自己が自己をする、ただ座禅が座禅を座禅するということかもしれません。