道元禅師は次のように言っておられます
〔玉は琢磨によって器となる。人は練磨によりて仁となる。
いずれの玉がはじめより光ある。誰人か初心より利なる。必ずすべからくこれ琢磨し練磨すべし〕
禅宗では、瓦を磨いても玉にはならぬ。
小坊主僧が川原で瓦を一所懸命磨いていたそうです。
そこに祖師が通りかかられた。
お前は何をしているのか?
はい。瓦を磨いて玉にしょうと思って、一生懸命に磨いているのです。
ばか者、瓦をいくら磨いても瓦だ。玉だから磨けば光を発するのだ。
ダイヤモンドも山から掘り起こしているだけでは、輝きはない。
悪い部分を切り取って、さらにカットして磨いていくと綺麗に輝いていきます。
人は神の子と言われています。
ジャガイモのように土から掘り起こしているだけでは、土だらけのじゃがいも、
土のついた汚い部分を振い落としていけば、綺麗なじゃがいもになります。
罪の子が修行して神の子になるのではない。
本来神の子だから神の子になるのです。
でも、年月と共に不純物や汚れがいっぱいついているから、輝きがない。
泥を洗い落とし、ゴシゴシ綺麗にしていけば、もともとは神の子であり、
さらに磨いて行くと光輝くようになります。
光のかけ橋 日記より 2009-12-08
仏性というものは人間のすべてめいめいの上に豊かに具わっているもので、衆生は本来仏です。
けれども修行しないと現れないし、それを自覚体験しないと攫む事は出来ないと言う事みたいです。
修せざるには現れず。
弁道話を味わう 内山興正
開悟の〔開〕も〔現成公案〕の現も同じです。
現とは、今までなかったものが現れるという意味での現ではない。
どっちへ転んでも陰顕在没にかかわらぬものをいまここでやるというのが現です。
〔開〕も、これまで閉まっていたものが、いま開くいう開ではない。
開悟といっても、迷っていたのがいま悟りをひらいたいうのではない。
本来ひらいている悟りをいまここでひらく。これが開悟です。
自受三味とは、迷っているとか悟っているとか、いままで迷っていたが、いま俺は悟ったぞ、
そんなものではなくて、悟りも迷いも超えて本来自己ぎりの自己だから、この自己ぎりの自己に座る。
これが自受三味です。
今出会っているところが、生命の実物なのだから、そこに生きる、
その修行をどこまでもやっていくということです

〔玉は琢磨によって器となる。人は練磨によりて仁となる。
いずれの玉がはじめより光ある。誰人か初心より利なる。必ずすべからくこれ琢磨し練磨すべし〕
禅宗では、瓦を磨いても玉にはならぬ。
小坊主僧が川原で瓦を一所懸命磨いていたそうです。
そこに祖師が通りかかられた。
お前は何をしているのか?
はい。瓦を磨いて玉にしょうと思って、一生懸命に磨いているのです。
ばか者、瓦をいくら磨いても瓦だ。玉だから磨けば光を発するのだ。
ダイヤモンドも山から掘り起こしているだけでは、輝きはない。
悪い部分を切り取って、さらにカットして磨いていくと綺麗に輝いていきます。
人は神の子と言われています。
ジャガイモのように土から掘り起こしているだけでは、土だらけのじゃがいも、
土のついた汚い部分を振い落としていけば、綺麗なじゃがいもになります。
罪の子が修行して神の子になるのではない。
本来神の子だから神の子になるのです。
でも、年月と共に不純物や汚れがいっぱいついているから、輝きがない。
泥を洗い落とし、ゴシゴシ綺麗にしていけば、もともとは神の子であり、
さらに磨いて行くと光輝くようになります。
光のかけ橋 日記より 2009-12-08

仏性というものは人間のすべてめいめいの上に豊かに具わっているもので、衆生は本来仏です。
けれども修行しないと現れないし、それを自覚体験しないと攫む事は出来ないと言う事みたいです。
修せざるには現れず。
弁道話を味わう 内山興正
開悟の〔開〕も〔現成公案〕の現も同じです。
現とは、今までなかったものが現れるという意味での現ではない。
どっちへ転んでも陰顕在没にかかわらぬものをいまここでやるというのが現です。
〔開〕も、これまで閉まっていたものが、いま開くいう開ではない。
開悟といっても、迷っていたのがいま悟りをひらいたいうのではない。
本来ひらいている悟りをいまここでひらく。これが開悟です。
自受三味とは、迷っているとか悟っているとか、いままで迷っていたが、いま俺は悟ったぞ、
そんなものではなくて、悟りも迷いも超えて本来自己ぎりの自己だから、この自己ぎりの自己に座る。
これが自受三味です。
今出会っているところが、生命の実物なのだから、そこに生きる、
その修行をどこまでもやっていくということです
