道元禅師の座禅の中では、只管打座がでてきますが、

無情の悟りを悟るのには、無上の無為の妙実があると言うのです。

仏が仏に伝えきた自受用三味というのが、標準であると言っていますニコニコ


受用するというのは、法をわが身に受けて用いるのだそうです。

自分が悟って、その道を味わって、その道を生きて行くのが、自受用、

それを他人に向かって説いて、他人を悟らせると言うのが。他受用と言う事みたいです。


自受用三味と出て来ましたが、三味とはなんだろう?

三味とか、それ一つになり切る。


道元禅師の言う座禅で、はっきりと只管打座という言葉が出て来ます。

ひたすらと言うと言うよりも、ただと読む方が良いと言っている方がいます。

只管打座して、ただ座禅して、身心脱落する事を絵よと言っています。

身心脱落するという事は、身と心が脱落するという事なんだそうです。

先程の三味と出て来ましたが、一つになり切ると言うことみたいですが、

それ一つになり切るとは?


現成公案にもありますが、ひな鳥が親鳥の自由に天空に羽ばたくのを見て、

ひな鳥は羽根をパタパタと習う事であり、先仏を手本にして、後仏がそれ学ぶと言う事みたいですね。


そのなり切ると言う事が出て来ましたが、丁度よい例え話がありますパー

コマがうまく回転している時には、丁度一点に静止しているように見えるそうです。

そのものになり切って、ものになると言う事も言われていますが、

車の運転でも、スキーでも上達すれば、ものになったと言われますね


道元に、聞くままに、心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水という歌があります。

自己を忘れて、無心に聞く時、軒の玉水がそのまま自己であったというのです。

三味の話が出ましたが、心の安定・集中の境地と言われています。

座禅をさらに続けて行きますと、だんだん座禅が身についてくると思います。

ただ、もう~忘れて、無心で座禅をしていますと、無心と言う事がどんなことか、体験して行くと思います。、

無心で座禅をしていると雨だれの音を聞いて、

聞くままに、心身にしあれば。己りなりけり軒の玉水。

自己を忘れた時、方法に証せられる。

無相の自己を悟らされる。

修行しないと現れないと思います

ここで言う修行とは?座禅です。

本来めいめい持っていると言われています。

本来の自己・本来の悟り。


悟って仏になったらと言っても何もなにないと、何もプラスされたわけではない。

何もならない思いますが、その何もならないのなら、

何もしない方が良いと思って言っている方がもっと何もならないと思います。

修行しない現れるものではないと思いますが、本来めいめい身に持っているものが現れて、

自分が悟って実証してみないと、はっきりとそれを掴む事ができません。


余談な話をしますが、能力的な事やチャネリングとかものにしている方がいますが、

それもなり切る事、なりきった事で、そういった能力が開花して、ものになったと思います。

あえて言いますが、座禅とは瞑想ではありません!?


骨格と筋肉にまかせて、思いを手放しをするという事が求められます。

若輩者の自分が、座禅のお話をするのは、心が咎めますが。、

座禅は奥の深いものです。

自分が語ったのは、少しでも香りが伝えられたらと思いましたが、何せ語る資格のない者です

禅宗には素晴らしい沢山のお坊さんがいて、いくらでも座禅をさせてくれますからね?

骨格筋肉にまかせてと言うよりも、ただ、ひたすら座禅をしてくださいね!!