お釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになりました。

しかし、その意味は誰にもわかりません。

その時に、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこりほほ笑まれました。

今からおよそ2500年前にお釈迦様が悟りを開かれて、時空を超えて、人の心から心にと伝わったと言われがあります。

瞑想とかしていると、想念体に亀裂が入り、無意識の葛藤とかカルマ(因縁)とかのエネルギーが上がってきます。
サイダーの泡如く上がってきますから、それを解放する事が大切だと思いますよ。

この因縁カルマの解放とか洗いなおしとか言われていますが、苦を滅する道があるとお釈迦様は言っています。

それがハ正道だと思っています。

禅で昔話に、禅の達人がいて、座禅の姿で死んでいると伝えられていましたが、ある高僧はそんな馬鹿な事があるか、悟っても病気にならないと言うのは嘘であるし死なないと言う者も嘘だと言っていました。

本来仏と悟って、自分を仏だと自覚していても、悟りというものは広大無辺なものと思っています。

悟って、何かを得ようとかしたら、それは外道だと言われます。

悟っても悟らなくても、何にもならないと思いますよ、

本来は仏ですからね。

その何にもならないと思っている者は、もっと何にもならない者だと思います。

何かを得ようとするのではなく、座禅の姿が悟りですからね。

ただ、ひたすら座禅を修行しないと現れるものではありません。

本来の自分が、自分をする座禅は悟りそのもの姿だと思います。


※座禅そのままの姿が悟りなら、悟りを開く必要はないのではと言った方がいましたが、仏性というものは人間のすべてめいめいの上に豊かに具わっているもので、衆生は本来仏です。

けれども修行しないと現れないし、それを自覚体験しないと攫む事は出来ないと思います。

修せざるには現れずと言う事だと思いますパー