世界観1;ジョンとシジマ | 取り敢えず

取り敢えず

…と入力してみた(笑)

『日記』というより、後に続く者たちへの『遺言』…かもしれない(笑)。

この話は かなり長くなってしまうので、何日かに分けて書こうと思う。
…まぁ、要は またゲームの話なのだが( ̄∀ ̄;


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その昔、大々的に反戦運動をして 政府にも“要注意人物”としてマークされた男がいた。

ジョン・レノンである。


彼が目指したのは『戦争のない平和な世界』。

果たして、この思想は実現可能であろうか?
もっと言ってしまえば、『現実的』だろうか?


『争いのない世界』とは、即ち『“怒り”のない世界』とも言えるのではないか?
若しくは『“他人との比較”がない世界』とも言えるのかもしれない。
人は他人と違うから、相手を理解しようとし、理解し難い物に対して“怒り”を感じるのではないか。
その怒りは、時として向上心に繋がり、時として悪意に繋がる。
時として芸術となり、時として犯罪になり、時として戦争になる。



『“喜びだけ”の世界』は有り得ない。
…と言うより、“有ってはならない”と言うべきかもしれない。
少なくとも、現在の人間には“有ってはならない”事であると言えよう。
“日々の小さな喜び”で毎日が充実できる人は良い。
しかし、世の中には そんな“小さな世界”で満足できる人は少ないと思う。
人は他人と比べたがり、争いたくもないのに争わされ、勝利に喜び、敗北に苦しむ。
勝利した者は勝ち続ける事を望み、敗北した者は次こそ勝とうと願う。



果たして、『“喜びだけ”の世界』で 人は“向上心”を持てるだろうか?
形のある物はいつかは壊れる。
命ある者はいつかは死ぬ。
そんな状態で、『“喜びだけ”の世界』を創れるのだろうか?


人間には“怒り”や“悲しみ”がある。
それを放棄するという事は、即ち“喜び”や“楽しみ”まで放棄する事にはならないか?


あらゆる感情を放棄し、ただ“宇宙の一部”として存在するだけの世界…それが“シジマ”という世界である。

しかし、そんな状態で 人は本当に“生きている”と言えるのだろうか?
“生きる事”と“ただ存在する事”とは、全く別の事である。


人には、『人として生きる』為の“感情”を持ち合わせている。
そして、他の動物にはない“理性”も持ち合わせている。
その“感情”と“理性”を見事にコントロールできてこそ、“本当の人間”と言えるのではないだろうか。