さて、闇雲に“犯罪者”を叩いてばかりの自分だが、それだけで犯罪そのものがなくなるとは思っていない。
『犯罪者になるかどうか?』のボーダーのひとつに、『理解者がいるかどうか?』があると思う。
特に“被害妄想が大きい人間”には、それに関するリハビリと“理解者の存在”が欠かせないと思う。
人が一人で対処できるバッシングには限界がある。
そして、人はどんな境遇であっても 支えがあれば何とか持ち堪える事が出来る。
謂れ無きバッシングに耐えるのは並大抵の事ではない。
この点に関しては、『バッシングする方』も立派な“加害者”である。
言うなれば、“犯罪者(又は“自殺者”)を生み出す事に加担した”のだから。
“謂れのある”バッシングに関しては、当人が気付かない限り 全く意味の無いものと言える。
“ただ叩くだけ”なら幼稚園児にでも出来る。
何の背景も知らずにただ叩いているだけの連中は、喧嘩を囃し立てる野次馬並み(又はそれ以下)の存在である。
世の中、“限度を知らない連中”が増えつつある。
以前“いじめは学校だけの専売特許か?”でも少し書いたが、誰もが被害者になり、誰もが加害者になり得る世の中になっているのである。
『私は大丈夫』、『俺は絶対に平気』等という“根拠の無い屁理屈”が通用しない世の中に とっくの昔から なっているのに、それに気付かず平々凡々と“存在している”連中の多い事。
あなたは、絶対に“加害者”になり得ませんか?
あなたも気付かない間に“加害者”になってませんか?
そして、あなたが“被害者”になった時、本当に味方になってくれる人はいますか?
本当に考えている人間だけが“生き残る価値のある人間”ではないだろうか?