幼少期由来PTSD発症。 | H2のブログ

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10月13日未明4:00

'ヒィッ'と息を吸って

布団から上体が飛び起きた。



「全てが条件付きの愛だった」



そう気づいた瞬間だった。




前日の午前中、

長い不眠の時期を経てやっと

布団に横になり昼寝をすることが

できるようになっていた。



そこへ玄関のチャイムが鳴った。

睡眠を遮られて残念な思いで

よろよろと扉を開けると

80歳超の父が昼飯の差し入れに訪れていた。


老齢の父に見舞ってもらう申し訳なさと

相変わらず相手都合を顧みないことへの

憤りが交錯しつつも、

差し入れを真にありがたく受け取った。


父は袋包を私に手渡すと同時に、



「寝てばかりいてもしょうがない。

きっかけを作って動かないと。

俺とウォーキングでも始めないか?」



と私に声をかけた。


鬱という病、抗うつ剤の離脱症状など

知る由もない。

20年前の最初の鬱以降、

'俺は分からない'と一度の援助もなかった。


ましてややっと眠れるようになったことも

知らないでは、やむを得ない。


好意だけはありがたく受け取っておこうと



「やっと眠れるようになったから、

また調子が良くなったら考えるわ」

「ありがとう」



と礼を言った、それと入れ替わりで父は、



「いつでも家に来て休んだらいい」



と優しい言葉をかけてくれた。

心からありがたいと思った。


直後、



「母さんが喜ぶ」



との一言を続け、去った。



はっ、と目が見開いた。

扉が閉まって、

私は玄関の土間で

'ヒィッ'と息を吸った後、

膝から崩れ落ちた。

吸い取られるように全身から力が抜けた。


脳がジーッという音ともに機能を停止する。

激しい頭痛が湧き上がる。

体は心臓を中心に内部からガタガタと

震え始める。

心臓から左耳の後ろを通って脳へ

激しい動悸が音を立てて繰り返す。

どんどん息が上がって苦しくなる。

視界は狭窄し視点が定まらない。


頭を抱えてその場にうずくまると同時に

玄関の蹴り上がりに倒れこんだ。



しばらくはそのままの状態が続いた。



動けるようになって、

這うようにして氷枕を用意し、

頭痛薬を飲み、

布団に潜り込んで丸くなって

目を固く瞑ってただただ悶え続けた。



眠れない。

頭痛薬が全く効かない。

震えと動悸と脳の神経伝達の乱れか、

ガタガタと一向に落ち着かない。



この間、

精神は完全に錯乱していた。

突如として沸いた希死念慮の暴走が

止まらなかった。


飛び降りる場所の候補を2箇所

なぜか父の実家への経路上に決めた。


よかったのは車を運転する気力も

なくなっていた事だった。



救いを求めるように

数ヶ月前に辞めたタバコを何本も吸って

ようやく少しだけまともな意識を

取り戻した。



それからしばらくの間、

何も食べず眠らず

ただ布団の中で丸まっていた。




体の内部から震える感覚は初めてだった。


抗うつ剤や抗不安薬の副作用でも、

これらの断薬による離脱症状でも、

手や足を中心に体の外側が震えることは

あっても内側からくるそれはなかった。



「心が本気で震えている」



ことが分かった。



この時初めて、



「幼少期の精神的虐待のPTSDの発症だ」



と認識した。



父の「母さんが喜ぶ」の一言から、

次の数々の状況や言葉が

泉の如く脳内に湧き上がった。



「パンドラの箱が開いた」



記憶のない母の胎内時から

物心つくまでの間のことは

記憶としては記述できないが、



少なくとも祖母による母への虐めは

父との結婚の挨拶のために父の実家へ

赴いた時から始まった。


その後母は1人目のこどもを流産し、

私が胎内にいた時も父の実家へ行く度に

母は虐められ、

私は胎内でそれを感じていたのか

予定より大きく遅れて未熟児として誕生した。



早生まれの未熟児は同学年の他のこどもに

比べて小さく弱く発達が遅かったことを

父の実家に行く度に厳しく咎められた。


母が祖母への怒りの言葉を私のアルバムに

残しているほどだ。



母が妹を身籠ると、

父は3歳前後の私だけを連れて実家へ

片道2時間をかけてまで

なぜか毎週のように通った。



後に母はそんな父のことを、

いつもなんとかして

祖母に取り入ろうとしていた、

と言っていた。



ある時祖母は私を手放さず、

父に置いて行けと命じた。

私は3か月前後の間、

母にも会えず人質のように扱われ、

父が何度連れて帰ろうとしても

祖母はなかなか許さなかったと聞いた。



記憶と物心がついてからは、

私はいつも以下のように扱われた。



父は私の意向など一切考えることもなく、



おばあさんが喜ぶと言って

父の実家に否応なく連れていかれ、

おばあさんが喜ぶと言って

否応なくTELの相手をさせられ、


おばさんが喜ぶと言って

否応なく長期間の病院の見舞いに連れられ、

おばさんが喜ぶと言って

否応なく父母から離れて旅の供をさせられ、


お店のおばさんが喜ぶと言って

おばあさんの買物の供をさせられ、


犬が喜ぶと言って

おばさんの犬の散歩に連れられた。



いつも挨拶の手土産のように扱われた。


数歳の頃から中学生くらいまでずっと。



たかがそんなことなのかもしれないが、

従わないという選択はよほどの発熱などの

状況以外一切ありえなかった。

口ごたえなどというものも母と同じく

一切あり得なかった。



挙げ句の果てには、



皆がお前のためにこんなにしてやって、

さぞかしお前は

嬉しかったろうと、楽しかったろうと、

私の感想まで一方的に押し付けられた。

彼らの自己満足のために。


さらには、

これだけ皆によくしてもらったのだから、

老後は皆の面倒を見ないと

おまえはバチが当たると、


してもらったことは全て条件付きで

あったことを事後に明かされ、

それが当然の責務であると

笑いながら執拗に繰り返し諭された。



その時の、

自分が罠に掛かって逃げられなくなった

ような事態に気づいた時の恐怖は

今も鮮明に覚えている。



どれだけ長い間、

実質的長男の長男であることから、

父母以外にも独身の4人の父の兄弟姉妹の

老後をどう請け負ったらよいのかという

重圧に苦しんだか知れない。



加えて、

父の実家に独身のまま残った4人が

未婚のまま歳を取ったり亡くなると、


父の実家を継ぐのは私であって当然という

位置付けを父が暗示し、

家の維持や私自身と私の家族の

将来設計をどうするものかという難題を、

父の末弟が早逝してあえなく

父の実家が人手に移るまで負わせられた。



既に物心つく前から

自分の意志など何の効力もないこと、

祖母と叔母には父母ともに逆らえないこと、

他の父の兄弟姉妹は何があっても

無言の傍観者であり続け、

母はとうに父の実家に寄り付かず、

母は祖母や叔母に私が可愛がられていると

私からも距離を置いた。

父が実家に一緒に行っても、私や妹が

目の前で祖母や叔母に虐められていても

叔父と酒を飲み寝て無視を決め込んだ。




幼子を'可愛がる'自分らに満足する。


明らかな強要や脅迫を自分らの潔白のために

行使しない代わりに、

'誰かのために'という自分らの人を想う優しさ

にすり替えて自分の意向を押し付ける。


幼子の疑いなく人を想う純心につけ込んで

拒否する選択を心理的に奪った上で

巧妙に自身の意図に従わせる。


明らかな悪より

はるかに汚いやり口だった。




そんな状況がいくつになっても

繰り返されれば、

小学生の頃にはとうに、

精神がおかしくなるに決まっている。


だから私は小学4,5年生の時に、



「私は誰にも頼らないで生きる」



という信念をいだいた。


アダルトチルドレンの誕生だった。



はじめは祖母と叔母と父母の間に立って

大切な父母を守らないといけないと思い、

次第に父と母の間にも立って

大切な母を守らないといけないと思い、

幼子ながらにひとり奮闘してきたのに、


私や妹が危機に陥っても、父母はいつも

逃げてばかりで一切助けてくれなかった。

特に父は時折'向こう側'に立った。




「三つ子の魂百まで」



いつの時代からあった言葉か?

祖母が生まれた明治時代にはなかったか?


知らなかったとは誰にも言わせない。



父の生まれた年に起こった真珠湾攻撃から

始まった太平洋戦争でさえ4年で終わった。


父の叔父が上海上陸後に戦死し、

もう1人の叔父が帰国後も涙ながらに

頑なに口を閉ざし続け、

妻の父方の祖母が満州国関東軍司令部で

東條英機さんの元で働いていた

日中戦争でさえ15年で終わった。



私はこの50年超の間、

辛かったことを思いだしたり、

辛い状況に陥ったとき、

いつも戦死した叔父らのことを思い出し



「戦争に比べればなんてことはない」



と言い聞かせて乗り切ってきた。



けれど

5年ほど前に父の末弟の逝去とともに

終わったと思っていた私の'戦争'は、


この日違う結論に至った。



「ラスボスは父だった」



今思えば私には反抗期というものが

次の2つしかなかった。


一つは私が高校生になっても私宛で届いた

手紙を勝手に開封して中身を見る父に

おかしいだろと怒鳴ったこと。

(父から殴られたがそれでも翌朝謝った)。


もう一つは高校生の時、

「お前の悪いところは人の顔色を

窺うところだ」

と父から不意に指摘され、

私は反射的に、

「あんな環境で育ってそうしないで

生きてこれたか!」

と怒鳴り返したこと。



私の'戦争'は50年超を経ても

まだ終わってはいなかった。



悲しいかな

こんな風に戦争に例えて考えること自体、

昭和で心が止まったままの

アダルトチルドレンの証拠だろう。



他人事だと思っていた8050問題が、

自分がまさにその当事者だったとは。




けれど、

ただその感情を心の奥深くに封印して

気づいていないだけかもしれないが、


父母を含め特定の誰かが悪かったという

思いはない。

怒りや恨みもない。


彼らは皆それぞれの時代や立場の元で、

それぞれの人生を生きるのに

精一杯だったかそれ以外の生き方を

知らなかったに過ぎない。

私と同じく。



ただ、'悲しい'という感情だけは拭えない。



それは自らが受けた事に対してではなく、


彼らがなぜそのような生き方ややり方を

せねばならなかったのか、

違う道はなかったのか、

なぜ救われれることがなかったのか、

という事に対してである。



慈悲という言葉がある。

私の思う'悲しみ'は、以下の感覚に近い。

だからといって何をできるものではないが。


  • 悲はサンスクリット語の「カルナー」に由来し、「人々の苦を抜きたいと願う心」の意味である[1]。大乗仏教においては、この他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し、「大悲」(mahā-karunā)と称する。




親ガチャという言葉は私には意味不明だ。

何故だか知らないが

親を自分で選んできたということに

疑いはないし、

私の末の息子もそうだと明言したから。



しかしこの、母の胎内にいるうちからの

選択肢のない仕打ちは何なんだとは考えた。


親と同じく自分で選んだ人生ではあろうが、

あまりに酷ではないか。



私の過去世の重罪の報いなのか?

父の実家の家系に積もったカルマなのか?


さらに家系のカルマならば

この負の連鎖を私は私のこども達に

受け継がせてしまうのかとも悩んだ。



そんなことを考えても何の解決にも

繋がらないが、



ただ、妻やこども達に自分の意向を

押し付けることだけはしたくなかった。


彼らの自由意思や望みを妨げたり

否定することだけはしたくなかった。



であるから

あまりに不器用で極端ではあったが、

私はこども達にあまり深く接することが

できなかった。

接し方が分からなかった。


父の生き写しとなってこども達に同じことを

してしまうことが恐ろしくて。


おそらくこども達だけでなく、

妻にも、周りの人達にも。


そうやって逃げ続けた人生だった。



結果、私は妻から



「あなたはいつも父親としてこども達に

接していない、心がここにない」



と繰り返し言われてきた。


結局、家庭は妻に任せきりになった。


つまり、父にも夫にもなれなかった。



過去のブログで書いたことを

何度も繰り返し書いてしまう。

馬鹿みたいにこどもじみて。

よほど根深い傷なのだろうが。



こうして書いているだけで、

動悸と体の中からの震えと頭痛が

起こってくる。




しかし、父の実家において

私や妹が祖母らから受けた悪影響は

これだけではなかった。



今回、自身のPTSDの発症を契機に

毒親の影響について改めて学び始めた。


その過程で、

父の実家の

皆が集う居間で私や妹の面前で

彼らが日常的に行っていた行為が、

現代ではまともなものではなかったことが

分かってきた。




20年来の抗うつ剤の断薬の影響。

鬱の再発に伴う再服用と

薬疹の発生による減薬の影響。

鬱症状自体。


これらを経て、

私の病気の根本原因である

幼少期のPTSDを改善していくことは

避けようのないことだ。



けれど、

これらはあなたの人生への'ギフト'です

と言われて、はいそうですか

貴重な体験をさせていただけて

ありがとうございます、

などとは決して言えない。



強いて想えるのは、

救いを求める祈る心だけだ。




↓パンフ用挿絵


尾崎豊さんの「闇の告白」。




今日もありがとうございます。