推古天皇2 | ruriのブログ

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久々のブログ更新です。推古天皇の続きです。

即位後の推古天皇。皇太后(先帝の皇后)の自分が即位なんて前例がないと最初は断ったが、3度も請われてやっと即位する気になったようで。まあ夫の帝(敏達天皇)が天然痘で崩御されたときも、兄帝(用明天皇)が同じ病で崩御された時も迅速に次の天皇を決めたのが彼女だったのです。だからこの功績が朝臣たちに認められたのです。

 

そのあとは亡き兄帝の息子厩戸皇子を摂政皇太子に任命して、大臣は引き続き蘇我馬子で朝廷を切り回そうと考えてたと思います。

以前の解釈では額田部は女性だから政治は無知と思われてた部分はあったかもしれません。でも叔父の蘇我馬子とうまくタッグを組んで自分と敵対してた異母弟の穴穂部皇子や崇峻天皇を殺しても構わないと馬子に暗に許可を出したのは。。。ほかならぬ額田部だったから。もっと以前なら夫の敏達天皇の最初の皇后(押坂彦人大兄皇子の母広姫)を殺した(自分が皇后になりたかったから(^^;)のも実は。。といわれてるくらい権謀術数にたけた女性だったといわれてるから。政治能力は全く無いわけないと私は思います。

彼女の最終目標は長男竹田皇子を天皇にすることでした。ただ竹田皇子は若くして亡くなったので。次男の尾張皇子にも期待をかけてたけど、彼もまた早くに亡くなります。。残ったのは4人の娘たち。。その長女菟道貝蛸皇女を厩戸皇子に嫁がせたのですが、子供が出来ぬうちにこの長女も亡くなります。次女の小墾田皇女は押坂彦人大兄皇子の妻に、三女の田眼皇女は田村皇子(のち舒明天皇)の妻にさせます。四女の桜井弓張皇女は次女の小墾田皇女の死後に後妻?として押坂彦人大兄皇子の妻になったと思います。ただ押坂彦人大兄皇子は実母も早くに亡くなり、皇太子候補から外されてたけど、それでも重要なポジション?にある皇族の一人であるのは間違いないと思います。

当時の皇太子候補(厩戸皇子がその筆頭?)たちの皇子に自分の娘を嫁がせたまったくの政略結婚だったのですがね。

ただ彼女の娘らも早くに亡くなり、結局彼女が崩御するときに残ってた皇太子候補は、厩戸皇子の長男山背大兄王(母親は馬子の娘刀自古郎女)とかつての娘婿の田村皇子だけだったのです。。結局田村皇子が即位して舒明天皇となります。

 

 

だから表向きは皇族代表の厩戸皇子と朝臣の代表の馬子という二つの車輪をうまくコントロールして乗っかってたのが額田部だったと思います。

まあこの時代に日本は色々時代が変わり、まず仏教の興隆。蘇我家の氏寺飛鳥寺も完成して、日本のあちこちに御寺ができたりしたのです。これは厩戸皇子の命令でほとんど御寺を作ったようなものですが。例えば現在の大阪にある四天王寺とか奈良県の明日香村にある橘寺とか、斑鳩町にある法起寺とか、中宮寺とか、京都の太秦にある広隆寺もそうです。

それから小野妹子を大使として派遣した最初の遣隋使も派遣しました。それから冠位十二階と十七条の憲法を厩戸皇子に定めさせたのも彼女でした。まあこの辺は今も歴史の教科書に載るくらい?有名な話なんで、割愛させていただきますが。

それから622年に厩戸は額田部に先立って亡くなります。それから叔父の馬子との仲もぎくしゃくし始めます。

今の奈良県葛城市あたりの土地をめぐってのいざこざでしたが。。そこに自分の屋敷を建てたい?土地を開墾したい?と申し出たが額田部はそれを認めなかったとか。それからしばらくして馬子も亡くなります。天皇も628年に崩御されます。