持統天皇2 | ruriのブログ

ruriのブログ

ブログの説明を入力します。

続きです。

鸕野はめでたく皇太子妃になったけど、前途洋々というわけにはいかず、彼女や夫大海人皇子は試練を迎えるのです。

近江大津に遷都して中国(唐)式の都を造り、宮殿も祭礼?(蒲生野の薬狩など。端午の節句の走りといわれてますが。)ものちのちの律令制度と呼ばれる法律の元を作ったり(近江令)文化もなにもかも中国式にしてしまったのです。流石に保守派の朝臣たちは何もここまで唐の国に媚びらんでもって口々には言ってましたが。そして噂では皇太子の夫を差し置いて、自分の息子の大友皇子(鸕野の異母弟)を皇太子にするのでは?っていう噂もありました。唐の国の皇位継承は長子相続ですからね。当時の日本の皇位継承は兄弟相続(基本天皇皇后を両親にもつ皇子女が皇位継承者上位だった)が普通でした。でも大友皇子の母親は皇族やなく、伊賀国の豪族出身でしかも采女(天皇の食事係の女官)でしかない。だから皇位継承の資格はないという当時の朝臣たちの意見でした。だったら皇太子の大海人皇子なら両親とも天皇だったからまだましって言ったところです。

色々朝廷もごたごたしてるうちに、まずは、父の盟友だった中臣鎌足の死去。続いて父天智天皇の発病。もう余命長くない父は夫大海人皇子を呼びます。そしてお前に皇位を譲る。大友はまだ若いから皇太子にさせてやってくれと涙ながらに訴えます。でも夫は父の意図を理解したのか、「兄帝の病回復を祈願しに吉野の寺に行って勤行します」と宣言してその場で出家したのです。流石に周りは驚きました。鸕野も最初は吃驚したが、すぐに夫の気持ちを理解したのです。

まあ結局父は夫を試したのです。皇位継承の野心があったら夫を殺すつもりだったのです。でも想定外?な展開に父はダッタラ吉野へ行けと命令したのです。ただ世間では「虎に翼付けて放したようなものだ」と噂されたようで。

それからしばらくして父は崩御します。

それから鸕野にとっての試練でした。まずは吉野へ夫と息子の草壁皇子、それから亡き姉大田の息子大津皇子、それから夫と他の妃(宍人臣の娘木穀媛娘。)との間に生まれた刑部皇子を連れて行きます。ほかの夫の妻子たちは大津宮に残ってたか、飛鳥あたりに戦乱を避けて逃げたかもしれんが、まあ万が一夫に何かあった時の皇位継承者たちですから。。。

大津の都には夫の長男高市皇子(母は九州の豪族宗像氏の娘尼子娘。)が連絡係?として残ってました。

そして食料や兵器を吉野にこっそり持って行ってると大友が情報を得て色々妨害してたようで。父帝の墓を造営するんだとか色々理由つけてね。まさに一触即発の状態だったと思います。

そして都では大友皇子が即位して弘文天皇となります。そのころ朝廷や地方の豪族たちは近江か吉野かどっちにつくかで迷ってたようですね。古代の最大の内乱、壬申の乱の始まりですが。まあ夫のほうが人望があったようでほとんどが吉野方についたのですが。。異母弟大友はまだ若かったし、そこまでの政治経験もろくになかったので仕方ないと言ったらそれまでですが。結局近江の重臣たちだけが味方?あとは夫に反感を持ってたごく一部の連中?とかが近江についてたようで。今の畿内(京都以外)と三重や岐阜の一部が戦った跡になりますが。。

結局夫の圧勝で終わりました。異母弟大友は自害。近江の重臣たちも処刑や流刑となりました。

そして夫は大和の飛鳥に再び遷都。浄御原宮で即位します。鸕野は皇后となります。

そしてこの夫婦と高市皇子でとりあえず大臣もおかず、皇族のみで政治を回す皇親政治が始まりました。

天武天皇の功績と言ったら八色の姓、浄御原令発布、古事記や日本書紀の編纂スタートさせたり、富本銭などの銭の発行も彼の功績です。

まあ父天智天皇のやってたことをそのまま踏襲してるに過ぎないがwそれでも父が病で崩御したため、できなかったことをこの二人がやってたからね。。

 

余談ですが、、ちなみに父のやってたことは大化の改新直後の話に戻るけど、公地公民(大豪族から国へ土地や民を支配。にシフトさせる事。それまでは大豪族の私有地だったから彼らの反発を買ったんです)地方行政の組織を以前の国造などから郡司や郷長などに変えること。中央も大臣や大連などの呼び名も廃して、左右大臣とかにしたんですけどね。

あとは、、戸籍制度(庚午年籍)もこの時から始めたんです。これで当時の日本の人口なども分かってきたと思います。

それと税制も変更させたと思います。租(収穫した稲の5%納める)庸(都で10日労働の代わりに布を納める)調(地方の特産を納めること)がそうですね。。あとは、天智天皇の功績は時計(水時計)を大津に作らせたことなどなど。ほとんど唐の国の影響が強いものですね汗

 

話はだいぶ横道にそれたけど、夫と鸕野は高市皇子と一緒に色々政治を展開します。

でも長いこと政治に携わってた鸕野は過労で体調を崩してしまいます。その時に夫が彼女の病回復祈願のために建てた寺がありますが。。今の奈良市にある薬師寺です。

それからしばらくして草壁皇子や大津皇子はじめほかの天武天皇の皇子たちもそれなりに成長して次の皇太子を誰にするかでまたいろんな思惑がうごめいていました。鸕野は内心一人息子に皇位継承をしてほしいとは思うけど、どうやら彼は政治や武道よりも、学問や風流を重んじる静かなキャラの皇子でした。。逆に甥の大津皇子は夫や父に似たらしく豪放磊落な性格で武道も学問もそれなりに修めてて草壁以上の能力の高い皇子となってました。朝臣の人気はやっぱり大津のほうが高くて、夫でさえも大津のほうが皇位継承者にふさわしいと思ってたようで。。すっかり草壁はかすんでしまったようです。。

危機感を募らせた鸕野は自分の異母妹の一人で従妹(亡き母の妹の娘)でもある阿閉皇女を草壁の正室とします。阿閉皇女も見かけは大人しいがなかなかのしっかり者と評判の皇女様でした。鸕野はそこを気に入ったんだと思います。

この二人からのちの42代文武天皇(軽皇子)や44代元正天皇(氷高皇女)や吉備皇女などが生まれます。

一方大津皇子は亡き祖父石川麻呂の弟赤兄の孫の山辺皇女を正室に迎えます。鸕野は内心乗り気でなかったが、夫は快諾したようです。まあ鸕野からしたら兄弟とはいえ、祖父を陥れた赤兄の孫と自分の甥が結婚なんて内心嫌だろうけど。。でも甥が望み、夫も認めたからと渋々?認めたようです。

それからしばらくして、夫と鸕野と草壁や大津や高市や刑部、鸕野の異母弟二人、志貴皇子や川島皇子も連れて吉野に行幸(天皇の外出)したそうです。その時に鸕野が息子や弟を抱きしめて?、互いに母親もそれぞれ違うけど、お互い争うことのないようにというのちで言う吉野の誓いをさせたようです。さて当人たちはどう思ってたのやらw

長くなりそうなので続きます。