上矢印

昨日のブログに書いた内容を、職員に確認したところ、

 

「あれから本人のお母様を担当されているケアマネさんとも話しをし、本人の様子について確認している中では、以前に比べ少し落ち着いているようです。前に、保健所の保健師さんが訪問をして、それがこりごりだったとも話されてました。様子を見て、さりげなく隣にいるような感じで関わっていこうとう思います!」

とのことでした。

 

良かった。

 

 

 

今、わたしは、栗山英樹氏の『信じ切る力』をいう本を読んでいます。

 

 

あと、もう少しで読み終わるところですが、

 

“あぁ、この人だから優勝できたんだ。”

 

そう思いながら読んでいます。

 

 

 

 

ここ数日で、わたしは、とても大きな学びをしました。

 

学びに大きいも小さいもないのですが、ここまできていなかったら、到底学べなかったと思っています。

 

 

 

 

自我が、幻想物語を創ることは、わかっていました。

 

その物語を停止させるには、そう思ったことを素直に認めることで停止することもわかっていました。

 

でもその理解度は、テストで高得点を取る為に、歴史の年号を覚えたり、計算式を覚えたりする程度で、そういう歴史になった背景や、その計算式が導き出された経緯など全く知らないでテストに解答を書いていたようなモノであったことがわかりました。

 

 

 

 

わたしが持つ自我は、強烈に自分を守ろうとするために、自分が正しいという到達点に到達するまで、絶対に自我の座を譲らないのだということがわかったのです。

 

 

自我の世界を、甘くみてました。

 

自分を律するほど困難なことはないと思いました。

 

 

 

 

 

ここからのお話しは、わたしの自論です。

 

 

 

大谷選手と水原氏との間でトラブルがありました。

 

その報道を観ていて、

 

「水原氏が、嘘をついていた。」 と同じくらい、大谷氏は、正直な人なんだ。

 

「水原氏が、お金に執着していた。」 と同じくらい、大谷氏は、お金に執着がないんだ。

 

真逆だと、そう思っていました。

 

 

 

 

大谷氏が水原氏のことを、報道を使って、もっと責めてもいいし、自分は賭博などしていないんだと、潔白を大々的に言い放ったとしても、それは当たり前だと、誰もが思うことです。

 

だけど、大谷氏と水原氏との関係性など何も知らない周りの人たちは、勝手に憶測に憶測を重ね、ああだこうだと論じています。

 

でも、大谷氏は、記者会見で話しをした以外、「野球に集中したい」と、何も言いませんでした。

 

 

 

大谷氏は大谷氏で色々考えたと思いますが、彼は知っていたんです。

 

自分が、水原氏が悪いんだと、自分が正しいんだと言い張れば、もっと険悪なことになり、野球に集中できなくなることを。

 

 

 

 

彼は、自我を持っていないのだろうかと、そう思ってしまいます。

 

いえ、多分、持っていない。

 

 

 

 

あれだけのことがあっても、自分の意識を向ける方向は決まっていて、決してブレない。

 

彼は、結果を出しています。

 

 

 

 

記者は、「奥さんが、そばにいませんが、どういう気持ちですか?」みたいな質問をしていました。

 

大谷氏は、「寂しいって言わせたいんですか?」 と、笑って答えていました。

 

 

 

 

 

わたしは、大谷氏や栗山氏の意識レベルに行きたい。

 

そう思いました。