自我は、納得しないと、納得できません。
自我は、どんな方法を使ってでも、自分が正しいと思われる着地点を探します。
自我は、都合の良いことだけを聞き入れ、都合の悪いことは、聞いてなかったふりをします。
ですから、幻想物語を創るのが、大の得意です。
わたしが観ている世界は、ただ、在るだけです。
赤い車がある。
家がある。
人が立ってる。
犬がいる。
ただ、それだけです。
でも、赤い車を見ると、
「あの車、大っ嫌いな上司の車と一緒だ!あんな車に乗る人の気が知れないわ!」と、Aさんは思い、
Bさんは、「あの赤い色がいいのよね~。今度車買うけど、やっぱり赤にしようかなぁ~」となる。
これが、わたしの観ている世界です。
家を見て、
「こんなでっかい家に住んでるやつなんて、きっと傲慢でろくなやつじゃないのに決まってる!」と、Cさんは思い、
Dさんは、「こんなでっかい家は建てられないけど、あの門はステキだなぁ。家を建てる時は、あんな門がいいなぁ」となる。
これが、わたしの観ている世界です。
誰かを、何かを観て、
そこに、わたしの想いがくっついた世界が、わたしの世界です。
わたし自身、自我の世界にどっぷり浸かっていたころがありました。
誰かから、
「あなたの悪口を、Aさんが言っていたわよ。」
そんなことを聞くと、いっきにわたしの世界は、Aさんが登場する幻想物語が始まります。
Aさんが主人公です。
Aさんと関わった出来事を思い出したり、
「あんたこそ、どうなのよ。」と過去の、もうとっくの昔に忘れていたような出来事まで思い出して、
どんどんまとわりついて、元々は何の話しだったか、わからなくなるほど。
なんとしても、わたしが正しいという位置に物語を進めていかないと、その物語が終わらない。
どんどん、Aさんのことが嫌いになっていきます。
そして、Aさんも、わたしのことを嫌いになる。
それは当然です。
この世界は、鏡の世界ですから。
自我の世界を脱出するには、Aさんが、どんな悪口を言っていたかを聞いてみることです。
それは、言い返すためではなく、わたし自身が、次元上昇する為です。
その悪口を聞いて、腹が立つようなら、わたしの裏側です。
正直に、素直に、自分が、頭の中で思ってることを思い出すと、
「確かにそう思っていた。」
鏡ですから、そのまんま映ります。
その人が教えてくれなければ、わたしが知らなかった裏側。
ところが、自我は、もんのすごい頑固もので、素直になんてなれないんです。
「そうかも・・・」 と思った瞬間、
「いや、絶対に違うから!」 と抵抗してきます。
何故なら自我は、自分を守ろうとするからです。
自我は、わたしを守る為に生まれてきたと言っても過言ではないと思います。
誰からも見放され、孤独になるのは、おそらく、死ぬより辛いことです。
自分を攻撃されること、否定されることは、恐怖でしかありません。
ですから、自分の考えよりも、人の意見を優先したり、
何かを頼まれるとイヤだと言えなかったりします。
幻想物語を延々と続けると、どんどん膨らみ、もう戻れなくなります。
頭の中がやかましいのは、幻想物語という本を、思考が読んでいるようなものです。
思考が読むのを止めさせようとすればするほど、やかましくなります。
瞑想とか座禅とかして、頭の中を空っぽにしなけりゃ、しなけりゃと思うほど、やかましくなるのと同じです。
幻想物語は、納得することができたら止まります。
「Aさんのことなんか大っ嫌いだ!」 と思考が喋ったら、
「Aさんのことが大っ嫌いなんだよね。」 と、納得させたら、それで終わります。
最初は、頭の中が
こんな状態ですから、1つは納得させれても、また次がやってきます。
それでも、わたしはあきらめませんでした。
「幻想物語が始まったな」 と気づいたら、納得させてあげる。
これを繰り返しました。
繰り返していって初めてわかったのは、もともと頭の中は静かなんだということ。
イメージでいうと
こんな感じです。
あのやかましく喋っていたのは、わたしではなかった。
ここまでくるまで、めちゃくちゃ時間がかかりました。
2年くらいかかったんじゃないかなと思います。
それでも諦めなかったのは、どんな世界が観えて来るのか知りたかったからです。
この世界は、静かで、とても楽です。