「押してもダメなら、引いてみな。」
そんな言葉があるように、上手くいかない時は、観る角度を変えてみる。
わたしは、社会福祉協議会で働いています。
わたしが働いている別の部署に、相談を受ける課があります。
そこで働いている職員から、どうしたらいいのかわからないと、話しがありました。
要介護2の母親と、娘の二人暮らし。
その娘さんが精神を病んでいて、仕事から帰って来ると、家の中で奇声を発し、それがご近所さんにまで聞こえて、夜中でも聞こえるので、何とかして欲しいという依頼があったようです。
市役所の人も、他の課の方も、4課ほどその方に関わろうとしても、どうしても拒否されるので、最期に相談が回ってきたと言います。
娘さんは、宗教に入ったらしいのですが、その後、その奇異な行動が始まったようです。
仕事は、行けていると言います。
市役所の方も含め、相談してきた職員も、訪問理由は、「奇声を発しないようにしてください。」と言いに行って、奇声を発することを止めてもらおうとしていたようです。
うちの職員が訪問したけれど、「もう、来ないでください。」拒否されたと言います。
わたし達には、善悪が存在しているので、
奇声を発して、ご近所に迷惑をかけていることは悪いことなので、それを止めてもらおうとします。
宗教に入っていたというと、信者なのかと捉え、その宗教が悪影響だったのではないか?と考えてしまいます。
でも、誰もが奇声を発するわけではありません。
ましてや、ご近所にも聞こえるほどの奇声を発するなんて、なかなかできることではありません。
それでもそうしてしまうには、仕事にだけは行けるようにと、何とか自分の精神をコントロールしている状況だと考えられます。
仕事に行けないと生活できない。
生活できないのは、困るから、コントロールする。
宗教に入ったのも、何かに頼りたいと思う苦しさがあり、何かにすがりたいと思ったから。
こういう方は、とても自分を責めています。
自分で自分を責めていて、何とか奇声を発することでコントロールをしているのに、それを止めろと、また責められる。
もう限界。
奇声は、ダメだ。
宗教は、ダメだ。
という角度ではなく、
奇声を発するに至るほどの苦しさがある。
宗教に頼りたいと思うほど、誰かに助けて欲しいと思っている。
観る角度を変えると、
そこまでしなければならないほど、追い詰められている人。
自分が正しいと思い、
自分の正しさに相手を従わせようとすると、どんどんその正しさからは離れていきます。
そうしなければならないほどの苦しさ。
そう言わなければならないほど、追い詰められていた。
そうならなければいけなかったほど、辛かった。
言葉や行動という、目に観える、耳に聞こえる状態になった時は、結果です。
必ず、その結果に至った想いがあります。