「ああなれば、こうなる。」
「こうなると、ああなる。」
生きてきた中で体験してきたことで、「こうなると、そうなる。」と信じたことは、
必ず、次からもそうなります。
何故なら、
わたしが観ている世界は、わたしが信じた事で構成されているからです。
花を見て、
「綺麗だ」と思う人もいれば、
「これはスイセンで、ニラと間違って食べると、毒があって大変なことになるよな。」と思う人もいれば、
スイセンと悲しい思い出が重なって、泣いてしまう人もいれば、
興味もなく、そこに花があることさえ気づかない人もいます。
目の前の現実を観て、どんな捉え方をして、どんな感情を抱くのか、何を思うのかは、その人にしかわからず、それがわたしの観えている世界になります。
政治に興味がある人は、今の政治情勢が気になって仕方がない。
政治家は、いつもウソをつくと思っていれば、そこにフォーカスがいき、その部分を切り取ってその部分だけに意識を向けていきます。
恋人が欲しいと思っている人は、どうやったら恋人ができるかが気になって仕方がない。
ネットで検索するのは、「恋人ができる方法」とか、「恋人ができない人の特徴」
選ぶ服も、どんな服を着たら、好感を持ってもらえるのだろうかと、意識をしてしまいます。
でも、実際には、政治家とか恋人とかに関係なく、
「人を信じることができない。」という信念を持っていることで、そのターゲットが政治家になっていたり、異性になっていたりします。
何かを選択する時も、
「これを選ぶと、周りがうるさいしなぁ」とか、
「前にもこっちを選んだら、えらいめにあったよ。」とか。
自分でそう思い込んでいることで、
無意識のうちに「決定」をしてしまい、プロセスがその方向へと向かい始めます。
「◯◯さんのコンサートに行く!」
そう決定すると、チケットを購入し、休みを取り、交通手段を選び、開演時間までに到着し、自分のチケットの番号の場所に座る。
「◯◯さんのコンサートに行く!」
これが着地点です。
何度もコンサートに行ったことがあればあるほど、当たり前のようにこの行動をします。
この方法でないと、コンサートに行けないからです。
それと同じように、無意識に、何度も何度も同じことを繰り返していると、
当たり前のように同じ結果を観ることになるので、
「こうすると、こうなる。」
と、思い込んでしまいます。
そこが着地点だと信じているからです。
同じ体験を繰り返しているなら、どこかの時点で、全く今までと違う行動を取る必要があります。
いつも謝ってばかりいるなら、謝らずに自分の考えを言ってみる。
いつも相手を怒らせてばかりいるなら、自分の言動や行動の共通部分を探してみる。
今、目の前に現れた現実は、過去に経験したことと、全く関係がありません。
同じプロセスにはならない。
どうすればいいかは、自分の宇宙に聴いてみます。
「また、同じことが起こったんだ。どうしたらいいのかわからないから、助けて欲しい。」
あとは、肯定の選択をし、自分ができる精一杯をしていく。
必ず、導いてくれます。
思考で解決しようとしないことです。
思考は、わたしの記憶の集まりです。
それ以上でも、それ以下でもありません。
ドリカムの吉田さんは、歌詞が物語のように頭の中で創られるらしく、だから、絶対に歌詞を忘れないそうで、
音楽の神様がいて、
「あっ、降りてきた。」
そんなふうに言うそうです。
それと同じです。
わたしの神様がいます。