自由になりたいと思っていました。

 

何からも束縛されず、自由になりたいと思っていました。

 

 

 

 

イメージで言えば、

 

思いっきり翼を広げて、大空に飛ぶ鳥のような感覚です。

 

 

 

 

自由になるには、どうすればいいんだろう。

 

 

それには、お金が必要。

 

お金がなければ、好きな物も買えないし、行きたいところに旅行にも行けない。

 

思う存分使っても、有り余るほどのお金があったら、わたしは自由になれるんじゃないのか?

 

でも、それだけのお金を稼ごうと思えば、当然それだけの働きをしなければいけません。

 

家族と一緒にいる時間を仕事に費やせるのか?

 

そんなにまでして、お金を使いたいのか?

 

 

やりたいことは、やれるし、買いたいモノも買える。

 

旅行にも行けてる。

 

 

・・・でも、自由になりたい。

 

 

 

 

 

自我を手放していくと、少しづつ心が軽くなっていきます。

 

それはまるで、

 

 

 

重い鎧を脱いでいくようで、

 

あまりにも、わたしの体にピッタリしていたために、鎧を着ていたことさえも知らず、

 

外したら、こんなに軽くなるのか。

 

そんなイメージです。

 

 

 

 

自我の世界は、二元性です。

 

比較の世界です。

 

比較することで、自分の立ち位置を確認していきます。

 

常に、

 

わたしより上か下か。

 

わたしより、幸せか不幸か。

 

を、判定しています。

 

 

自分の幸せは、周り次第となっています。

 

 

 

自我を手放していけば、二元性の世界は消滅していきます。

 

 

 

「素晴らしい人だなぁ」とか、

 

「尊敬するわぁ」とか、

 

「見習いたいわぁ」とか、

 

「綺麗な人だなぁ」とか、

 

そういう事を思っても、わたしと比較することはありません。

 

ただ、そう思うだけです。

 

 

 

 

 

わたしの観ている世界は、わたしの意識が投影しています。

 

ということは、

 

わたしの内側が信頼で満たされていれば、観る世界は信頼の世界になり、

 

わたしの内側が自由で開放されていれば、観る世界も、自由で開放感を感じる世界になります。

 

 

 

この信頼というのは、

 

「あなたは、自分を信頼していますか?」 という信頼ではなく、

 

この宇宙の法則を、完全に信頼することができたときの信頼です。

 

わたしの体験上ですが、そうやすやすと、宇宙の法則を信頼できるものではありません。

 

 

 

何か、ものすごい重大なことが起きて、どうするかをどうしても決めなければいけない時、

 

自我の世界にいれば、

 

自分の今までの経験値や知識、一般常識や、周りの目を気にして選択してしまいますから、

 

「自分の持つ感覚だけを、絶対に信じることができるか?」

 

と問われたら、多分できないと答えます。

 

 

 

自我の世界を脱出すれば、宇宙の法則が、この世界で完全に信頼できるモノだとわかりますから、心の中は、信頼で満たされます。

 

わたしが観る世界で、裏切ることもありませんし、裏切られることもありません。

 

 

 

では、自由は?

 

わたしの内側の世界を、自由にするにはどうすればいいんだろう。

 

 

 

言い換えれば、

 

 

 

わたしを縛り付けているのは、何なのか?

 

 

それは、わたし自身が遣っている『言葉』でした。

 

 

 

自我の世界は、二元性の世界です。

 

やるか、やらないか。

 

0か100か。

 

白か黒か。

 

 

 

「やれないわたしは、ダメな人。」

 

「やりたいことがないわたしは、生きる価値がない人」

 

「優しくできないわたしは、人として失格」

 

と、ネガティブに物事をとらえる人は、わたしより何でもできる人に意識が向き、

 

そうなりたいのに、そうなれない自分を責めます。

 

 

一方、

 

「なんでもやる」

 

「やりたいことがいっぱいある。」

 

「いっぱい友達がいる。」

 

と、人生の成功者と言えるような人は、ネガティブに物事を考える人を、赦せなかったりします。

 

 

 

正義感が強ければ、悪を同じだけ憎みます。

 

綺麗好きであれば、そうでない人のことが赦せません。

 

知識があることが優秀だと思っている人は、知識がないと思った人の事をバカにします。

 

 

 

こんなふうに、

 

自分の体験してきたことを元に、自分の価値観、信念を持つことで、

 

口に出して言わなくても、頭の中で、常に、いい悪いとジャッジしています。

 

 

 

「そんなふうに思うのはいけない。」

 

「そんなふうに考えるのはいけない。」

 

 

いつの間にか、無意識に頭の中で、ジャッジしています。

 

 

 

 

人は、何かを考えます。

 

自我を手放せば、相当頭の中は静かになりますが、それでも何かを喋っています。

 

 

 

わたしは、検証してみました。

 

 

わたしが、どんなことを思ったとしても、全て

 

「◯◯と思ったんだよね。」「うん、そう思った。」

 

と、認めることをやってみました。

 

 

 

 

そうして感じたのが、「解放感」でした。

 

「わたしは、何を思っても、何を考えてもいいんだ。」

 

「わたしは、自由なんだ。」

 

 

それは、

 

 

空を飛んでいるような解放感です。

 

 

お金が、有り余るほどあるわけでもないし、

 

転職したわけでもない。

 

何か特別なことをしたわけでもなく、

 

誰かに、何処かへ連れていってもらったわけでもない。

 

何も変わってもいないのに、

 

わたしの内側は、解放感そのもので、自由です。

 

 

 

 

わたしを縛り付けていたのは、

 

わたしが思う、考える、「言葉」でした。

 

 

「言葉」が、わたしに制限をかけていたんです。

 

 

 

想像してみてください。

 

もし、この世界に言葉がなければ、わたしは、空っぽになります。

 

何も考えることができないし、何も思うこともありません。

 

 

でも、言葉を知ってしまったわたしが、言葉を遣わずにいることは不可能です。

 

思う事は自由です。

 

ただ、思うことを膨らませると、それは自我の幻想物語になり、いいことも悪いことも、わたしの思う通りになります。

 

 

 

どんなことを思おうと、ただ、そう思ったことを、そう思ったと認める。

 

この世界は、追えば逃げるし、逃げれば追われるという法則があります。

 

向き合って、認めてしまえば、宇宙の肯定の流れに乗り、偏りがなくなっていきます。

 

 

 

 

偏りが無くなると、

 

 

同じ世界にいながら、楽な世界で生きることができます。

 

 

わたしを赦す = 認める = 受け入れる 

 

それは、わたしを大切にすることに繋がります。