満足感を感じた時、とても幸せだと思います。
お腹いっぱい食べれた時。
欲しかった服を買った時。
行きたい旅行に行けた時。
登山をして、頂上に着いた時。
誰かが喜んでくれた時。
好きな人と一緒にいられた時。等々
自分がしたかったこと、
自分が好きなこと、
そういう時、とても満足感を感じます。
でも、逆に言えば、
そういうことがないと、満足感を感じることができず、
「あ~あ。何かいいことないかなぁ~」と、変化を求めたりしていました。
何かないと、満足できない状態です。
そんな世界から、わたしは、おさらばして、もう2年以上になると思います。
持続する満足感を、ずっと体験しています。
それは、ごく当たり前の、この日常にありました。
何かを得る事が、わたし自身を満足させると思い込んでいましたが、そうではありませんでした。
満足感は、わたしの中にありました。
常に、わたし自身に問い、
常に、わたしの閃きを信頼し、
常に、わたしと会話をし、
常に、わたしの望む方向へと舵をとっていく。
わたしとは、人間である「わたし」ではなく、
意識界にいる「わたし」のことです。
わたしは、頭で考え、こうやって体を動かしているわたしが、わたしであって、それ以外のわたしが存在しているなど、思ってもいませんでした。
でも、その頃のわたしは、いつも疲れていました。
生きづらさを感じ、何の為に生きているのだろうかと思いながらも、
生活をするためにはお金が必要で、
お金を得るためには、働かなくてはならなくて、
休みたくても、家事をするには動かなくてはならなくて、
休みの日に、ゆっくり休めないまま、また仕事が始まる。
でも、仕事にいかなきゃ、生活できない。
この繰り返しでした。
「じゃあ今は、働いていないのか?」
いえいえ、同じように働き、同じようにお給料をもらい、同じように家事をしています。
でも、疲れないし、心も体も軽い。
何が決定的に違うのかと問われたら、
わたしが、わたしを、縛らなくなったこと。
わたしが、わたしを、自我の世界から解放したこと。
そうしたことで、
『意識』が、わたしを動かしていることがわかったからです。
わたしは、考えることはするし、言葉も話しますし、感情もあります。
脳が、知覚神経や運動神経に働きかけて、体を動かしているんだから、あたりまえだと思うかもしれませんが、
その構造は、ロボットも同じだと、わたしは思っています。
自分に嘘をついていたり、誤魔化すことを続けて行くと、体調が悪くなってしまいます。
腹を立て続けていると、眠れなくなってしまいます。
確かに、脳が反応して、臓器に影響を与えます。
でも、それだけだと、このわたしが感じる満足感が何故持続しているのか、説明がつかないのです。
わたしが最初、とりかかったことは、完結させることでした。
例えば、
「コーヒーを飲みたいな」と思って、コーヒーメーカーを使ってコーヒーを作り、コップに入れて飲んだとします。
飲んだあと、必ず、コーヒーメーカーを洗い、コップを洗い、乾燥機に入れる。もしくは、拭いて棚に片づける。
洗濯物を入れたら、たたんで、所定の位置に入れる。
掃除をすると決めたら、必ず最後までする。
使用した道具も、必ず片づける。
こんなふうに、必ず完結させることで、わたしの中に起こったのは、
『達成感』でした。
何かの仕事で、大きなプロジェクトに関わり、大きな利益をあげるような結果になった時、きっととてつもない達成感を味わうと思います。
日常の誰もがしている、こんな些細なことなんて、どうでもいいと言われるかもしれません。
でも、こんな些細なことをしているだけで、この持続した満足感を味わえるのは何故なんだろうと考えてみると、
与えられたモノではなく、自分からやっていることだからなんだろうと思います。
自分自身を縛っていた自我を手放し、
比較するモノがなくなり、
本当のわたしと向き合い、
本当のわたしが、望むことをする。
たったそれだけのこと。
だけど、ここまでくるまで、10年以上の年月がかかりました。
『ただ、幸せになる』
少しづつ、近づいているのかもしれません。