童話や昔話は、この世の法則そのものを伝えてくれていると、いつもそう思います。

 

 

そのお話しの中には、必ず善と悪が存在しています。

 

 

道徳的には、

 

「正直になることはいい事なのよ。ウソをついてはいけないのよ。ウソをつくと、罰が当たるのよ。」

 

そんなところでしょうか。

 

 

子どもには、そうやって読み聞かせている自分は・・・と言えば、そうでもないことの方が多いように思います。

 

 

 

 

本当は、断りたいのに、ここは丸く収めないとまずいと、了解してしまう。

 

本当は、こっちが欲しいのに、友達に合わせて同じ物を買ってしまう。

 

 

 

「正直がいいなんて、物語では言えることだけど、大人になるとそうもいかないのよね。」

と、言い訳をしてみる。

 

 

 

 

『金の斧と銀の斧』のお話しは、損をするとか、得をするとかのお話しではなく、

 

『真の正直』について、教えてくれているのだと思っています。

 

 

 

 

それは、外の世界のことではなく、わたしのこと。

 

 

 

わたしは、11年前に息子を亡くしましたが、

 

その息子が入院をして抗がん剤治療をしていた時に、気が付いたことがありました。

 

この時のわたしは、スピリチュアルという言葉も知りませんでしたし、この世界の法則の存在も全く知りませんでした。

 

でも、気づいていたことがありました。

 

 

 

抗がん剤治療をしている息子は、吐き気止めの点滴をしていても、吐きました。

 

吐く物がなくて、涙目になって、それでもゲツゲツするのです。

 

わたしができることといえば、汚れた洗面器を新しい洗面器に変えたり、

 

息子の背中をさすることしかできませんでした。

 

 

 

 

抗がん剤治療を重ねることで、息子は食べ物の味がわからなくなり、

 

「何を食べても、砂を食べているようだ。」

 

そう言いました。

 

配膳された食事を目の前に置き、1時間経っても食べれない。2時間経っても食べれない。

 

あんなに好きだった、マックのハンバーガーでさえ、食べたくなくなっていきました。

 

 

 

可哀そうだと思いました。

 

辛いだろうなと思いました。

 

なんで息子が、こんなめに合わなくてはいけないのかと思いました。

 

 

 

でも、わたしは気づいてしまったんです。

 

 

わたしが、そんな息子を見たくないんだ。と。

 

モリモリ美味しそうにハンバーガーを食べる息子は見たいけど、苦しそうにしている息子を見たくないと思っているのは、わたし。

 

わたしが、辛い想いをするのが辛いと思っている。

 

 

 

 

この時は、母親なんだから、子どもが辛い思いをしている時に辛いと思うのは当たり前だと思っていましたから、この気づきに気づきながらも、息子の看病に意識を向けていました。

 

息子が亡くなってからも、この気づきは、時折浮上してきていましたが、いつも逃げていました。

 

 

 

でも、この世界の構造を少しづつわかるようになっていったわたしは、

 

「わたしが、辛い思いをしている息子を見たくなかったんだ。」

 

と、常に、わたしが中心で外の世界を観ていることに気づいたんです。

 

 

 

息子が亡くなった時、わたしも死にたいと思いました。

 

でもそれは、わたしが辛い思いをしたくないから、その辛さから逃げたいと思っていたからだということもわかりました。

 

 

 

 

この体験が、わたしはスクリーンに映る映像を、わたしの位置から観ていると気づくようになり、

 

スクリーンに映る映像を観て、わたしがどう捉えるかで、わたしの世界が創られていくことに気づいていくことになりました。

 

この世界の構造の一つです。

 

 

 

この世界は、真に正直なわたしになると、次元上昇して、別の世界に異動するしくみがあります。

 

その体験をしたことで、人間意識の道徳感に拘れば拘るほど、今いる世界から出られないことを知りました。

 

わたしが生きている目的の一つには、

 

わたしが人間的に良い人になることではなく、本当のわたしを知っていくことです。

 

知っていくことで、人間的に良いと言われる人になり、幸せになっていくという、現実の世界と真逆のしくみが、意識の世界にはあります。