誰もが体験していると思います。
「あっ、傘忘れた。」
「あっ、携帯忘れた。」
頭の中で、
「傘、忘れてますよ。」
なんて声が聞こえているわけでもないのに、
まるで、
一滴の水が落ちて、そこから波紋が広がったように、
「あっ」
と思った瞬間に、「傘を忘れた。」 と気づいてしまう。
わたしは、この感覚の時を、「閃き」と勝手に定義しています。
そして、この「閃き」は、意識界にいるわたし、もしくはガイドからの愛図だとも思っています。
思考は、言語 + 計算 + 記憶 ですから、わたしが忘れ物をしたことを、どうやって気づけるんだろうと思うのです。
「今日は、傘を持っていかないといけないな。」
そんな、誰にも聞こえていない独り言。
わたしが、傘を持たずに家を出ようとしている様子を観れるのは、
意識界のわたしか、ガイドしかいないよな。
そう思います。
ですからわたしは、よくお願いをしておきます。
「今日、仕事が終わったら、ガソリンスタンドに寄りたいから教えてね。」 とか。
何も考えていなかったのに、車に乗る前、もしくは乗った瞬間に、「ハッ」と気づかせてくれます。
もちろん、「ありがとう。」とお礼を言います。
もう、1年以上になるかもしれません。
頭で、次に何をするかを考えなくなりました。
今日も、お節の黒豆や、しいたけ煮等を作りながら、今年最後の掃除とか、お正月用に生け花をしていましたが、
「次はこれをして、あれをして・・・」
などと考えながらするのではなく、しいて言うなら「閃き」を連続させていくようなイメージです。
「あぁ、次は、それね。」 みたいに。
これは、本当に楽です。
1日中動いていましたが、全く疲れませんでした。
だから、最近思うのは、
頭を使い過ぎると、体も疲れたと感じるんじゃないのかなと。
仕事の時もそうです。
「このデータを、まとめて欲しい。」と依頼された時、わたしは直ぐに、
「ねぇ、どんなふうにまとめたらいいか教えて。」
そう質問して、浮かんだイメージでまとめだします。
以前のわたしは、
「あれをして、これをして、これをしたら、あれをして・・・」 と、時間配分をして行動に移していました。
感じる感覚は、時間に追われているような感覚でした。
でも今は、閃いたままを行動に移していくだけで、結局、時間内に終わることができます。
ですから、時間に追われている感覚はなく、気づいたら、うまい具合に終わっていた。となります。
やりたくないとか、後回しにしようかなど、考えることなく、ただ閃きの言う通りにしていきます。
これがまた、心地いい。
「閃き」は、日常から遣っていないと、信じることができません。
何か選択しなくてはならない時とか、
今から、どうすればいいかなどの時、どうしたって思考を使ってしまいます。
思考は、わたしの体験や知識の中からしか答えを出すことができません。
でも、閃きは、意識界からの愛図です。
その選択が、いったいこれからどうつながっていくのかなど想像もつかなくても、
あとで、「こういうことだったのか。」 そう思います。
どうしたって、体験したことや知っていること以外のことは、不安になったり臆病になったりしてしまいます。
新しい体験は、自我が拒否しようとします。
「ほらね。やっぱりそうなった。」
そう思った時は、自分の経験から選択してしまった結果です。
同じことの繰り返しをしてしまったということになります。
自我の世界にいた時、
自分の閃き、自分の感覚が、一番信じられないモノになっていました。
それよりも体験という経験値から、目の前の選択をしていました。
周りがどう思うかとか、どうせやっても無理だろうとか・・・
それは、とても狭い世界でした。
閃きは、
わたしの持っているモノから教えてくれたり、
わたしの持っているモノを、角度を変えて教えてくれたり、
ちょっと頑張ればいいようなことを教えてくれます。
わたしの持っているモノとは、
わたしが体験してきたことや、得た知識を活かせるようなことや、
それ以上に知識が必要な時は、ネット検索したり、本を探したりを誘導してくれたり、偶然見ていたテレビにヒントがあったりします。
意識界のわたしや、ガイドは、この宇宙の法則を知っていますから、
「その人をいじめてやりなさい。」
なんて閃きは、絶対にありません。
その人は、わたしですし、わたしが放出したエネルギーは必ず還ってくることを知っていますから。
閃きは、人間意識で言えば、幸せの方向へ向かわせてくれます。
スピリット意識で言えば、成長する方向、学べる方向になります。
わたしは、自分で試すのが大好きです。
本当にそうしたら、どうなるのか。
よく、
「わたしも今、そう思ってた。」
っていうことありませんか。
意識していれば、そんな体験は毎日あります。
今日も、Aさんのことを考えながら、そのAさんと関連しているBさんのことを思っていたら、Aさんが予告もなくやってきて、Bさんの話しを聞かせてくれました。
今日、主人と墓参りに行って、
もう、わたしたちの代で、墓じまいだなと思ったのですが、
今、このブログを書いている最中に、Aさんが、全く別のことで、墓じまいのことをLINEしてきました。
今日は、色々なお話しをしてしまいましたが、まとめてしまえば
「答は、わたしの中にある。」
ですかね。