この世のしくみを知らなかった頃の生き方は、常に受動的でした。
目の前に観えた現実世界に、感情が反応して、その感情を持ったまま次の行動を起こしていく。
例えば、
わたしがしたことが間違っていて、それを指摘されると、
「指摘された」ということに意識が向き、
「わたしは、間違ってなかった。」と、
「あの人がそう言ったから」とか、
「あの時は、その方法しかなくて仕方なかったんだ。」とか
わたしは、悪くない。間違っていない。と言い張りたいための、言い訳を考えたりはするけれど、
何処が間違っていたのか、
修正は可能なのか、
二度と同じ間違いをしないためには、何を明確にしておかなければいけないのか。等々の方向には、一向に意識を向けようとしていませんでした。
感情優位で、この感情を収めるのが精一杯だったように思います。
毎日は、時間との闘いで、
休みの日は、明日、仕事に行く為に体を休めたいと思うような日々で、
テレビで、ゴールデンウィークや、年末年始で旅行に行かれた方が、「明日から仕事です。」なんて答えている場面を観ると、よく驚いたもんです。
わたしだったら、仕事に行く日の前の日は、必ず家で1日ゆっくり過ごす日を準備するからです。
とにかく、それくらい、わたしの日常の中心は仕事で、仕事が軸になって、日常生活がありました。
今は、違います。
わたしの日常の何処を切っても、
金太郎飴のように、同じ遣い方をしています。
とにかく、受け身でした。
目の前に現れた現実に対して、どう対応するかを考えることで精一杯でした。
今は、能動的です。
目の前に現れた現実に対して、
感情が発動したら、学びのサインだと、
現実の世界と、意識の世界とを照らし合わせて、課題を解いていきます。
解いたことで、ゼロ点に意識をもっていったら、
そこから肯定の方向へ、意識の舵をとって、行動に移していきます。
『肯定』の方向とは、
自分がやりたいと思うことばかりではありません。
やりたくないし、めんどくさいし、言いたくも聞きたくもないと、自我が
じだんだを踏んで、拒んだとしても、
やることが、肯定の選択だと決定したら、行動に移していきます。
この時点の決定で、
次に観える結果が、変わっていきます。
例えば、
100円貯金を毎日していれば、1年経てば、36,500円になりますが、
今日くらいいいやと、たまに貯金する程度であれば、500円くらいの貯金額で終わってしまうかもしれません。
毎瞬の意識を、どちらに向けるかで、結果が変わってしまいます。
「100円を365日貯めたら、36,500円になるのは、当たり前やん。」
その通りなんです。
この世のしくみは、本当に当たり前のことなんです。
でも、自我は言います。
「今日くらい、まっ、いっか。」
この一瞬くらい、何てことないと思います。
での、この一瞬が、わたしの毎日を創っています。
「気がゆるむ時がなければ、しんどいやん。」
その選択も自由です。
でも、わたしは、その選択をしなかったら、どんな世界を観る事になるのかの方が、興味があります。
「しんどいからやらない。」
という選択の結果は、イヤと言うほど体験してきました。
わたしは、未知の世界を観たい。
実際、わたしが観る世界が、変わり始めています。
まだ、わたしは自我の世界を脱出していません。
薄皮一枚が、なかなか破れないようなイメージです。
今までもそうでしたが、
自分が、その課題の山を乗り越えたかどうかは、乗り越えた後にわかりました。
乗り越える前の段階では、今、わたしが乗り越えようとしているのかどうかなどわかりません。
何を、どこまでやれば、どんな課題がやってきて、
その課題を解いたら、次に何が起こるのかもわかりません。
「もう、これで最後だろう。」
課題を解く毎に、そう思いました。
でも、違っていました。
課題を解くと、次の課題が必ずやってきました。
最初は、
ピースひとつ一つの課題を解いているようなイメージでした。
でも解いていくうちに、
ピースが段々と繋がり始めます。
ピースとピースを繋ぐモノが、この世の法則でした。
そして、そのピースの集まりが大きくなって、
観えてきたモノが、自我の世界でした。
このピースが、全て埋め尽くされるために、何をすればいいのかは、手探りです。
でももう、ブレる事はありません。
今まで知った法則を全て遣って、毎瞬を過ごすのみです。
『魂の羅針盤』の示す方向でなければ、必ず愛図がありますし、
次に何をすればいいかも、ベストのタイミングで愛図がきます。
わたしは、ブログを書くことに一切興味がありませんでした。
でも、2020年の、わたしの誕生日の前日に、
“ブログを書いてみれば?”
そんな、声が聴こえました。
(※実際は、声ではなく、一滴の水滴が落ちて広がったのが言葉になったというイメージです。)
ブログに全く興味がなかったわたしは、どうやって書くのかもわからなかったので、知人に教えてもらい、誕生日の翌日から書き始めました。
それから2年経った誕生日に、わたしのブログを見て下さった出版社の方から連絡が入り、本を出版することになりました。
でも、わたしはきっと、そうなることを知っていたんです。
何故なら、息子が発病した時から、
「記録を残しておかなければ。」
そんな想いがあり、毎日日記を書いた結果、それが本になりました。
「あなたは、どうやって、今のあなたになったのですか?」
そんな質問をされたら、走馬灯のように過去を確認しようとするかもしれませんが、
結局は、毎瞬毎瞬の選択の積み重ねで、今、ここにいるように思います。
もし、息子が発病してから日記を書いていなければ・・・
もし、出版社のかたの依頼を断っていたら・・・
大きなタイムラインの選択は、誰でも覚えているかもしれませんが、
「日記を書こう。」
そう思ったあの日が、今のこのわたしになるとは、想像すらしなかったわけです。
だからわたしは、本当のわたしの想いを、絶対に無視しないようになりました。
10月24日に出版された、わたしが書いた本です。
第一章は、息子の発病から亡くなるまで。
第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。
第三章以降は、こころのしくみを書いています。
3月に書いた原稿で、幼かったわたしがいますが、ご興味のある方は、読んで頂けたらと思います。
来年には、2冊目を出版できるよう、成長し続けたいと思っています。