自我の世界に、自分がいるかどうかを知る方法として、『一喜一憂』があります。
自我の世界は、二元構造なので、
一喜すると、同じ振幅の一憂を感じます。
頑張って勉強したら、100点がとれて大喜び(一喜)したけど、
次のテストは、散々で、落ち込んで(一憂)しまった。というイメージです。
これは、自分自身が、勉強したり、しなかったり・・・
やる気が出た時は、頑張ったけど、気が乗らなかったから、やらなかったとか・・・
授業を一生懸命聞いて、真剣に取り組んでいたけど、いつまでも頑張れなかったとか・・・
コンスタントに高得点を取る人というのは、同じように一定の意識の位置で勉強をして、
やる気とか、気分が乗るか乗らないだとか、そこに振り回されるのではなく、
やる方向へ意識を向けています。
一喜一憂することがよくあるなと、自分を観察したなら、
「自我の世界の中にいるな」と、自分の意識の位置を確認することができます。
「一喜しないなんて、楽しくないんじゃないの?」
そう思うかもしれませんが、
もし自分が常に、テストで90点以上をとっていたとしたら、100点をとって一喜するというよりは、その点数に値するだけの学習をしたということになり、
もし、90点であったとすれば、「どこが間違っていたんだろう」と、修正する方向へ向かいます。
霊性進化プロセスも、これと同じような感覚を持ちます。
自我の世界にどっぷりと浸かっていた時は、何か奇跡的なことがあると、
もんのすごく喜んで、それがないと、
しょげてしまう。
この世界の法則を知っていくと、受動的な生き方ではなく、能動的に生きることができます。
受動的とは、
外に観える現実世界に、心が反応して、それに応じて生きている状態で、
能動的とは、
外に観えた現実世界と、自分の意識の世界を観察して、自分の意図する方向へ意識を向けて行動し、結果を観た時に、
「あぁ、そうなりましたか。」
と、自分の意識の遣い方を確認し、どんどんと自分のモノにしていく状態です。
一喜一憂するというより、
「その方向へ意識を向けた結果ですね。」 と、
「どんな問題が出ても、100点取れるような学習をした結果ですね。」と、
確信していく状態です。
確信できることは、一喜より嬉しいと思う感覚です。
一喜は、思ってもいなかった結果を観たり、たまたま偶然にそうなった。のように、確信がない状態です。
確信は、
そうなることを信じてやり続けてきた。
地に足がついた状態です。
一喜一憂することが、悪いこととか良いこととか、そうなってはいけないとか、そういうことではなく、
自分を観察することで、自分の意識の位置を確認していきます。
喜ばしい結果になったのが、偶然であったにしろ、その出発点は、その喜ばしい結果になる位置に意識を向けていたはずです。
100点がとれたときと、30点とったとき、
この差は、どこが違ったのか。
自我の世界は、二元性の世界です。
比較することが、大の得意分野です。
誰かや何かと比較するのではなく、
上手くいった時と、いかなかった時。
喜んでもらえた時と、そうでない時。
その時、どんな意識の遣い方をしていたのかを比較してみます。
肯定の選択をしていたか。
めんどくさいと、逃げていなかったか。
周囲のことばかり気にして、本当のわたしの想いを無視していなかったか。
素直に、正直に、自分を誤魔化さず、自分の意識と向き合います。
10月24日に出版された、わたしが書いた本です。
第一章は、息子の発病から亡くなるまで。
第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。
第三章以降は、こころのしくみを書いています。
3月に書いた原稿で、幼かったわたしがいますが、ご興味のある方は、読んで頂けたらと思います。
来年には、2冊目を出版できるよう、成長し続けたいと思っています。