「赦す」と「許す」

 

どう違うのだろうかと調べてみました。

 

 

この二つの言葉は、時間の向かう先が違うというのです。

 

「許す」は、これから行う行為を認めること。

 

「赦す」は、すでに行った行為の失敗を責めないこと。

 

なのだそうです。

 

 

 

 

今日は、「赦す」の方のお話し。

 

 

 

わたしを認めることは、わたしを赦すことでもあります。

 

そう言うと、

 

 

「失敗してしまったわたしを、赦してあげよう。」

 

「怒っってしまったわたしを、赦してあげよう。」

 

「泣いているわたしを、赦してあげよう。」

 

と思うことだと捉えていたなら、捉え方を間違えています。

 

 

 

自我の世界では、わたしを認める、わたしを赦すことは、超超超難関です。

 

 

 

 

この世界は、鏡の世界です。

 

鏡に映っているのは、わたしです。

 

 

 

自我の世界は、二元性の世界で、

 

わたしが表側なら、鏡に映るわたしは、裏側のわたしです。

 

 

 

裏側のわたしを観せられると、否定したい、拒否したいという反応が現れます。

 

このしくみをわかっていれば、

 

「おっ目、裏側のわたし、みぃ~つけた音譜」 と、

 

陰陽一対になるチャンスだと、

 

自我を手放せるぞ、

 

成長できるぞ、

 

学べるぞ、

 

次元上昇できるぞ。

 

と、このチャンスを最高レベルで活かせることができるのですが、

 

 

 

それを知らなかった頃のわたしといえば、

 

この人とは、会いたくない、話したくないと、その人から逃げる方向へ意識を向けていました。

 

 

 

もしくは、

 

わたしができることを、その人ができなかったり、やろうとしなかったりすると、腹が立つ。

 

 

または、

 

わたしがやって欲しいと思っていることを、やってくれないとイライラする。

 

 

 

そんなふうに、

 

わたしは、鏡に映るわたしに向かって、

 

否定したり、拒否したり、腹を立てたり、イライラしたりしていたわけです。

 

 

これが、「赦せない」状態です。

 

そして、二元性を遣っていることになります。

 

 

 

 

 

「赦す」とは、

 

わたしが、わたしを赦すことではなく、

 

鏡に映ったわたしを、認めることができるか? 赦すことができるか?

 

と、問われています。

 

 

 

 

その人は、わたしと性別も違うかもしれない、年齢も違い、体型も違い、育った環境も違い、生まれた場所も違い、顔も、身長も・・・とにかく、何一つわたしと同じところなんかありません。

 

でも、『魂の学び』は、そんな誰もが観えるようなところに、課題を隠してはいません。

 

人間意識からは、観えないようになっています。

 

そして、

 

人間意識が、一番嫌う方向、やりたくない方向、話したくない方向、観たくない方向に、課題が隠されています。

 

 

 

 

誰もがみつけることができる場所に、宝物は隠してなかったんです。

 

 

 

鏡に映ったわたしを赦せるようになるには、

 

そこに、どんな課題が隠されているのか、

 

そこに、どんなわたしがいるのかをみつけなければなりません。

 

 

 

意識の世界は、1㎜の誤魔化しも通用しません。

 

「赦せた。」 

 

と、思考で誤魔化しても、意識は逃げようとします。

 

 

 

この世界には、

 

逃げようとすれば、追いかけて来る。

 

追いかければ、逃げて行く。

 

という法則があります。

 

 

 

試行錯誤しながらでも、向き合うことです。

 

それが、向き合っていることになるのかどうかもわからなくても、

 

ちゃんと観てくれています。

 

ある日、

 

 

 

そんな瞬間がやってきます。

 

 

 

 

上矢印

10月24日に出版された、わたしが書いた本です。

第一章は、息子の発病から亡くなるまで。

第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。

第三章以降は、こころのしくみを書いています。

3月に書いた原稿で、幼かったわたしがいますが、ご興味のある方は、読んで頂けたらと思います。

来年には、2冊目を出版できるよう、成長し続けたいと思っています。