自我の世界を脱出するには、
自我の世界の構造を遣わないことから始まります。
その自我の世界の構造の一つに、『わたしの想い』があります。
自我の世界では、「わたしばっかり。」を遣います。
「わたしばっかり、あれもこれもしてる。」
「わたしばっかり、苦労してる。」
「わたしばっかり、怒られる。」等々
わたしの頭の中では、目まぐるしく会話が飛び交っています。
だからわたしは、めちゃくちゃ色んなことを考えていると思っています。
「あれも、これもしなきゃならないし、あれはこうして、こっちから始めて、でもそうすると・・・・」と、めちゃくちゃ考えています。
でも、目の前にいる人に対しては、
「何にも考えてくれていない。」
と、勝手に思い込んでいます。
そんなに考えているわたしなのに、親しい人と話しをする時に、
「あれって、どうなった?」
「これ、やっといてくれない?」
と、主語も述語もなく、
初対面の人や、何かの集まり、職場などでも、急に話しが始まり、誰のことで、何のことを話したいのか全くわからない会話をしています。
何か、トラブルがあった時、
「あの人は、きっとわたしのことを、バカだと思ってるに違いない。」などと、相手が思っているかどうかもわからないことを、勝手に妄想して自我の幻想物語を創っていきます。
まとめますと、
自我の特徴として、
わたしは、めちゃくちゃ色々なことを考えているのに、わたし以外の人は、何も考えていないように思い込んでいます。
わたし以外の人は、何も考えていないと思っているのに、「あの人は、きっとこう思っている。」と、思い込みます。
そして、
わたしは、こんなに色々考えていて、わたしばっかり大変な思いをしていて、誰もわたしのことをわかってくれないと思っているのに、会話をする時には、
「あれ」「これ」「それ」 で、相手はわたしの思っていることを、全てわかってくれていると思っています。
という構造を自我は持っているのですから、これを遣う限り、自我の世界の中にいることになります。
自我の世界を脱出するには、自我の構造を遣わないことです。
「あれ」「これ」を止めて、主語、述語を入れて、わたしが思っていることを伝えます。
主語、述語を入れて話している瞬間は、自我の世界から脱出しています。
でも、またそのことを忘れて、「あれ」「これ」を遣いだすと、自我の世界に戻っていきます。
家族などは、とても親しい関係で、「わたしのことは何でもわかってくれているだろう」と思い込んでしまいます。
でも思うんです。
「わたしのことを、誰もわかってくれない。」と。
わかるわけないんです。話していないのですから。
自我の世界を脱出するには、自我の構造を知ることが、必須条件になります。
どんなふうに話せば、わたしの思っていることがわかってもらえるだろうか。
どんなふうに書けば、わたしの思っていることがわかってもらえるだろうか。
常に意識をしていきます。
「わたしは、話しをするのが苦手だから無理だわ。」
それはそれでいいと思います。
ただ、わたしたちは、意識が生きる軸になっています。
無理だと思った瞬間に、停止し、先に進むことはできないようになっています。
「何も言わなくても、わかってくれるだろう。」を遣う限り、自我の世界から脱出できないしくみがあります。
10月24日に出版された、わたしが書いた本です。
第一章は、息子の発病から亡くなるまで。
第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。
第三章以降は、こころのしくみを書いています。
3月に書いた原稿で、幼かったわたしがいますが、ご興味のある方は、読んで頂けたらと思います。
来年には、2冊目を出版できるよう、成長し続けたいと思っています。