どんなに頑張っても、
嫌いな人に、大好きな人と同じように挨拶することはできません。
どんなに頑張っても、
したくない仕事を、楽しんですることなんかできません。
何故なら、思考(頭)だけで、わたしの気持ちと、行動を変えることは、不可能だからです。
「そんなことを、思ってはいけない。」 とか、
「ポジティブに考えなきゃいけない。」 とか、
「どんなことでも感謝しなきゃいけない。」 とか、
「わたしは、幸せなんだと思わなきゃいけない。」 とか・・・
思考で、何百回言ったところで、何も変わりません。
何故なら、わたしの行動を決めているのは、意識だからです。
そして、人間意識で言う、「幸せに成りたい」と思うのに、そうさせてくれないのが、
自我意識です。
自我意識は、
聞きたくないことは、聞きません。
言いたくない事は、言いません。
やりたくない事は、やりません。
観たくない事は、観ません。
「それでいいじゃないか」と、自我意識は言います。
はい、それでいいんです。
今のまま、生きていけばいいと思っているなら。
でも、「『もう一つの世界』を観てみたい。」と望むなら、自我意識が遣う意識と真逆の意識を遣う必要があります。
自我は、自分中心ですから、
「~を、やってくれない。」 を、連発します。
「いう通りに、やってくれない。」
「やって欲しいことを、やってくれない。」
「こっちの方がいいよと言ってるのに、やってくれない。」
わたしの望むタイミングで、
わたしの望む通りのことを、
わたしの望む通りの方法で、やってくれないと、ご機嫌斜めになってしまいます。
そりゃ、そうなんです。
意識の世界は、鏡の世界です。
わたしの意識の世界が、鏡に映っているのですから。
確かに、誰かに何かをやらせようとすることはできます。
権力や、年齢や、性別や、先輩後輩などの条件を使って、強引にやらせることは可能です。
ただこれは、自我の世界でのお話し。
わたしの人生を変えたいなら、
わたしの意識の向ける方向を変える必要があります。
「聞きたくないことは、聞きません。」 → 「聞きます。」
「言いたくない事は、言いません。」 → 「言います。」
「やりたくない事は、やりません。」 → 「やります。」
「観たくない事は、観ません。」 → 「観ます。」
と、自我意識は、黒か白か、0か100か、良いか悪いか、正しいか間違っているかと、
両極端で物事を考えてしまいますが、『肯定』の方向へ、意識の舵をとっていきます。
「人の悪口なんか、聞きたくないのに、聞くの?」となりますが、とことん聴いて、『鏡の法則』を遣って、とことんわたしの『学び』にしていけば、いつの間にか聞かなくなっていきます。
『鏡の法則』を遣うことで、自我意識を遣わなくなり、わたしの意識がどの方向に向いているのかが、わかるようになっていきます。
目の前に現れた現実(=結果)を観て、わたしの意識を『ゼロ』に調律していきます。
『ゼロ』とは、
全く気にならなくなった状態です。
「裏側にいるわたし」に気づくことができれば、陰陽一対になり、全く気にならない状態になります。
「わたしは、不幸だ。」 と、表側のわたしが言っているなら、裏側のわたしは、
「幸せになりたい。」と言っています。
「幸せになりたい。」と言っているのに、「わたしは、不幸だ。」と言い続けている世界を、表側のわたしが観ているなら、表側のわたしは、
「幸せになる方向へ舵をとるには、さあ、どうする?」 と、意識と行動を、幸せの方向へ向けていきます。
「幸せの方向って、どんな方向?」と疑問に思うなら、
今、観ているこの世界が、どんな世界になっていれば、わたしは幸せだと思えるのかをイメージします。
「いつも独りぼっちだ」と思っているなら、裏側のわたしは、「みんなと仲良くしたい」と思っています。
「みんなと仲良くしたい。」 と思っているのに、表側のわたしは、「ひとりぼっちになる」方向へ意識と行動を向けていることになります。
どうすればいいのかわからなければ、自分に質問してください。
きっと、どこかでその答えをみつけることができます。
裏側にいるわたしと、表側にいるわたしの意識が一致した方向へ進むのは、とても楽です。
苦しさを味わうのは、
表側のわたしと、裏側のわたしの向く方向が真逆だからです。
思考は、舵をとることはできません。
舵をとるのは、意識です。
10月24日に出版された、わたしが書いた本です。
第一章は、息子の発病から亡くなるまで。
第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。
第三章以降は、こころのしくみを書いています。
3月に書いた原稿で、幼かったわたしがいますが、ご興味のある方は、読んで頂けたらと思います。
来年には、2冊目を出版できるよう、成長し続けたいと思っています。