自我の世界を脱出するには、自我の発動を停止する必要があります。
発動を停止するには、自我が発動したことに気づかないといけません。
ところがどっこい、
自我は、あの手この手を使って、わたしの意識の中に入り込んできます。
それは、形状記憶したワイシャツのように、自我の世界から脱出しようとするわたしを、自我の世界へ戻そうとしてきます。
そもそも自我って、何なんだ?
そう問われたら、
「自分の世界だけが幸せならいい。」
と思っているわたしの世界。
って言えばいいのかなぁ。
自我の特徴としては、
「めんどくさい」をとてもよく使います。
とにかく、自分以外の誰かか、何かのせいにします。
わたしが、幸せに成れないのは、周りのせいだと言います。
「みんなが、そう思ってる。考えてる。」って言います。
わたしは、絶対に間違っていないと、言い張ります。
わたしのことを、一番に考えてよって思っています。
人の話しを聞いているようで聞いておらず、相手が話し終わったら、わたしが正しいと思っている話しをしようと、ウズウズしています。
保身が強く、周りの目がとても気になります。
話しを聞きながら、わたしのものさしで、いい、悪いを決めています。
想いや感情が優先して、事実に意識を向けようとしません。
・・・と、いくらでも書けます。
なにせ、わたしが実際に遣っていたのですから
自我の正体を知るまでに、3年くらいかかりました。
知ったら知ったで、今度は、自我を悪者扱いするようになりました。
自我を遣ったわたしを、
「また、自我を遣ってる」と、自分を責めるわけです。
おまけに、周りの誰かが、自我を遣っていると、「あの人は、自我のことを知らないんだ。」と、こころの中で、つぶやいてました。
これそのものが、自我だと気づくのには、相当な時間を要しました。
自我を、毛嫌いすることで、余計に自我のループに、はまり込んでいきました。
段々しんどくなってきたわたしは、「これは、おかしい。」 そう思いました。
霊性進化プロセスでは、体験しながら色んな学びをしていきます。
気づきが起きて、
「そういうことか!」
とわかって、意識の世界でわかったことを、実際に現実の世界で遣い続けてみます。
例えば、
「そうか!めんどくさいって言ってるのは自我なんだ!」
そうわかったら、わたしの意識の中で、「めんどくさい」が発動した時は、逆に直ぐに実行に移す。ということを繰り返していきました。
最初のうちは、「めんどくさい」が発動したことも気づかない時もありましたが、意識していくうちに、
「あっ、めんどくさがってるな。」とわかるようになり、
そのうち、目の前に現れた現実から逃げないようになっていきました。
継続できるのは、楽しいからです。
最初は、違いますよ。
最初は、「めんどくさい」の気持ちが優位です。
でも、その優位を、行動で、ぶち破っていく感じで実行していきました。
そうすると次第に、ぶち破っていくことの方が、心地良くなってくるんです。
そんな体験をしながら気づいたのが、
霊性進化プロセスの正しい意識の遣い方をしているときは、楽しいとか、やってみたいという感覚が湧いてきますが、
間違ったいる遣い方をしていると、面白くない。面白くないから継続できないということが、わかってきたんです。
(※これがやがて、『肯定』『否定』の流れに繋がって行きました。)
だから、自我が発動したことを、責め続けているのが疲れて、イヤになってきたことで、この方法は間違っていると思ったので、別の方法を探すことにしました。
そんな時に、
「主人公がね、土下座をして、潔く謝ったのよぉ~」と、NHKの朝ドラが大好きな知人が、話しをしている中で、そんなことを教えてくれました。
それが、ヒントだったんです。
自我は、幻想物語が大好きです。
自分が観たことに対して、そこに想いや感想、自分の正しさを付け加え、
目の前に赤い車があって、その車が、大っ嫌いな上司の車と同じ車種だとすると、
「こんな車に乗ってるなんて、趣味が悪いんじゃないの?」
と、赤い車を、自分の自我の幻想物語の中に登場させます。
自我の幻想物語の中味を、ざっくりいうと、「言い訳」なんです。
いつもわたしに怒ってくるのは、上司が悪いと思っています。
本当は、自分がいい加減な仕事の仕方をしていて、それを指摘されているのに認めることができない。
「言い訳」をしている間は、謝ることができません。
逆に、心底、謝ることができた時は、言い訳はしないんだ。そう思ったんです。
自我が発動するのは、言うなれば仕方がない。
わたしが、そう思ってしまうのを、止めることはできないんだ。
ならば、認めればいいんだと思いました。
自我が発動し始めたと気づいたら、
「◯◯だと思ったんだよね。」と、自我に話しかけます。
そしてわたしは、素直にそれを認めて、
「うん、そう思った。」
と、答えるようにしました。
誰かに言えば、「そんなふうに思うのは、間違っているよ。」と、100%言われることであっても、そう思ったことを、そのまま認めるようにしました。
「そう思ってもいいよ。」は、『否定』なんです。
この言葉の奥には、
「そんなことを思ってはいけないけどね。」が、入り込んでいます。
この世界に、体験をしにきているわたし達は、意識というスピリットです。
人間世界でいう、正しいことも、悪いことも、同じ体験なんです。
人間世界の常識を学びに来ているのではありませんでした。
そもそも、常識などというのは、1人1人の世界の中に存在するもので、
わたしの常識が、必ずしもあなたの常識ではありません。
自我が発動したことに気づいたら、そこで認める。
それを繰り返していくうちに、発動に気づくのが早くなっていきました。
そして徐々に、発動しなくなり、頭の中が、いつも静かな状態になりつつあります。
また、感情の炙り出しだけでなく、わたしの中の微動な情動にも気づくようになりました。
それでもまだ発動しますし、気づかない時もあります。
それでも諦めずに続けているのは、意識の世界と現実の世界に変化が現れてきているからです。
今のわたしにできることを、し続けていきます。
分相応のレベルに達したら、必ず次の扉が開きます。
10月24日に出版された、わたしが書いた本です。
第一章は、息子の発病から亡くなるまで。
第二章は、亡くなった息子と、つながった奇跡。
第三章以降は、こころのしくみを書いています。
3月に提出した原稿で、まだまだ幼かったわたしがいますが、ご興味のある方は、読んで頂けたらと思います。
来年には、2冊目を出版できるように、成長し続けたいと思います。