頭の中が、うるさかった頃は、胸に感じる感覚など、全く意識していませんでした。

 

 

脳が、色々考えてくれて、わたしの想いを言葉にしてくれているのがあたりまえで、

 

考えているのは、わたし。

 

 

そう、思っていました。

 

 

 

だけど、不思議だと思っていたこともありました。

 

本格的な座禅はしたことはありませんが、お寺で静かに座るという事があった時、

 

どんなに頭の中を静かにしようと思ってもできませんでした。

 

10秒もすれば、いつのまにやら、

 

ああでもない、こうでもないと考えているわたしがいて、

 

ハッと気づいて、また静かにしてみるけれど、直ぐに頭の中がやかましくなっていきました。

 

 

 

頭で考えているのは、わたしのはずなのに、わたしのいうことを聞いてくれないのは何故だ?

 

 

 

一瞬、そんな疑問が生まれましたが、いつの間にやら、そんな疑問は打ち消されるほど、頭の中は、再び、やかましくなっていきました。

 

 

 

 

自我に気づけるようになって、どんどん手放していきました。

 

手放すとは、捨てることではなく、

 

「偏りを無くす。」

「フォーカスしなくなる。」

「フラットにする。」

 

ことです。

 

 

 

何がどうなるのかわからないまま、とにかく、自我を手放していきました。

 

この時に、初めて意識しだしたのが、胸に感じる感覚でした。

 

 

 

 

頭の中で考えていることより、胸に感じるモヤモヤは、いったいわたしに何を教えてくれているのかを知ろうとしました。

 

 

 

自我を手放すタイミングは、重い感情、ネガティブと言われている感情が動いた時です。

 

怒りがこみあげてきたり、

 

腹が立ったり、

 

くやしいと思ったりした時です。

 

 

悲しいとか、辛いとかの感情もありますが、それは、怒りやくやしさに、紐づいてくることもありますので、今回は、上の3つで、お話しさせてください。

 

 

 

 

頭の中がやかましかった頃は、怒りや悔しいという感情の方が優位にたって、冷静(霊性)に考えることができなかったので、わたしは、書くことにしていました。

 

 

「何がそんなに悔しいんだ?」

 

と、自分に質問をします。

 

「◯◯になったことが悔しい。」

 

と答えたら、再び

 

「何故、◯◯になったことが悔しいんだ?」 と、

 

自分の答えたことを、質問に変えて、また答えるを繰り返しました。

 

 

 

答を考える時、

 

確かに言葉は、頭で考えるのですが、その際、

 

胸に感じる感覚に意識を向け、

 

胸に感じるモヤモヤが、スッキリする方向、胸のモヤモヤと、一致する言葉を探すようにしていました。

 

 

 

 

そうすると、誤魔化していた自分がみえてきたり、

 

素直になれない自分がいることに気づいたり、

 

自分の思い込みに気づいたりしていきました。

 

 

 

最初の頃は、『鏡の法則』のことも知りませんでしたから、

 

とにかく、胸がスッキリするまで書いたものでした。

 

 

この時、「相手は、きっとこう思っているだろう」と、何を思っているのかわからない相手のことを書くのではなく、

 

自分が、どう思っているのか。を素直に書いていたように思います。

 

 

 

 

 

そんなことを繰り返していくうちに、頭の中がとても静かになっていきました。

 

それでわたしは、

 

頭で喋っているのは、わたしではなく、何かを拾っているのではないか?

 

と、思うようになりました。

 

 

 

 

ラジオのように、自分の意識の周波数にあった言葉を拾っているようなイメージです。

 

 

確かに脳は、記憶をしてくれたり、言葉を発したり、考えてくれたりします。

 

 

忘れられない記憶というのは、感情がくっついています。

 

自我を手放していくと、この感情が、記憶から剥がれていくので、ただの事実としての記憶に変わっていきます。

 

 

下を向いて何かを考えると、幻想物語がどんどん膨らんで、ネガティブな感情が、どんどんくっついていきます。

 

でも、上を向いては、あまり物事を考えられない。

 

どちらかというと、「ああしたいなぁ~」「こうしたいなぁ~」という、楽しいことしか考えられない。

 

 

 

上を向くか、下を向くかで、わたしの考えることが違うということは、頭の中で考えているのは、わたしではなく、ネガティブであれば、その周波数に合った言葉を拾い、ポジティブであれば、その周波数に合った言葉を拾っているだけなんじゃないか?

 

そんなふうに思いました。

 

 

 

実際、自我を手放し続けると、頭の中は、とても静かになります。

 

何も考えていなくても、動けるんだと思うようになりました。

 

 

「あれをしなきゃ。これをしなきゃ。」

 

と、考えなくても、閃きのように次の行動へと移っていきます。

 

 

 

最近、時々ですが、

 

「あぁ、今、これをしたいのか。」と、

 

わたしの体でありながら、わたしが動かしていないような感覚になる時があります。

 

これが、結構心地いいんです。

 

 

「思考で、舵をとらなくなったのかなぁ」

 

と、面白い体験だなと思っています。

 

 

 

 

頭の中が静かになるのは、とてもいいです。

 

 

目の前の現実を、どの方向へ舵をとろうかと、スローモーションのように観えてくるようになります。

 

 

思うようにならないと思っていた現実だったのに、

 

今は、一旦時間を止めて、どちらの方向へ意識を向け行動しようかと、

 

自分の望む方向へ意識を向けています。

 

もちろん、その先は、未知の世界です。

 

自我の世界のように、同じ世界が繰り返される世界では、ありません。

 

 

何故なら、

 

「こうすれば、こうなるだろう。」という決定を、しなくなったからです。

 

 

 

 

 

 

上矢印

10月24日に出版された、わたしが書いた本です。

第一章は、息子の発病から亡くなるまで。

第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。

第三章以降は、こころのしくみを書いています。

半年前に書いた原稿で、まだまだわからないことだらけのわたしがいますが、ご興味のある方は読んで頂けたらと思います。

来年には、2冊目を出版できるように、成長したいと思います。