自我の世界にいることは悪いことで、自我を抜け出すことが良いことであるとか、自我はそういうことを教えてくれているのではありません。

 

自我があるからこそ学べたんだと、そう思っています。

 

 

 

わたしが、自我の世界から完全に脱出できたのかどうかは、今のわたしにはわかりません。

 

霊性進化プロセスは、いつも過ぎた後にわかります。

 

 

 

現実世界のように、必ず4月になったら進級できるとか、就職できるとか、そういう世界ではなく、また、どうなったら、そうなる。という確約が何もない世界です。

 

 

通り過ぎた後に、

 

「そういうことだったのか。」

 

と、わかるようになるシステムがあるように思います。

 

 

 

ですから、「◯◯っていうのは、こういうことですよ。」と、教えられてわかるものではなく、過ぎた後に、「◯◯って、こういうことだったのか。」とわかる。

 

それが、いつやってくるのか、いつわかるのか、さっぱりわかりません。

 

 

意識の世界にいる『わたし』が、現実の世界にいる『わたし』の意識と行動を観て、

 

「そこまで来たなら、次の扉を開けるヒントをあげよう。それが、わかったら、扉を開けてあげよう。」

 

そんなイメージです。

 

 

 

それは、この世界のゲームと全く同じです。

 

取説もなく、自分以外は、このゲームの中に入れず、

 

「全てを与えてあげるから、自分で課題をクリアしていきなさい。」

 

そんなイメージです。

 

 

 

 

自我の世界にいても、何ら問題はありません。

 

ただ、自分がどれだけ素晴らしい存在かということを知らないで過ごすことになってしまうのは、とてももったいないと思います。

 

 

 

ずっとそばにいて、見守ってくれている観えない存在があること。

 

その存在は、いつもわたしの質問に、最善の答えを教えてくれること。

 

悩みなど、存在しないこと。

 

毎瞬毎瞬の最善の選択を、最短でできること。

 

意識の軽さと、体の軽さは、比例していること。

 

肯定することは、わたしを無限の世界へ連れていってくれること。

 

 

 

自我によって、これら全てが、覆いかぶされているだけで、

 

自我の世界から脱出してしまえば、全ての人が同じ世界を観ることになる。

 

 

 

 

 

誰もが、自我の世界から脱出している瞬間は、あります。

 

 

何の利害関係もなく、ただ、その人の為に、そうしてあげたいと思ったから、その行動をした瞬間。

 

何かに集中して、時間も周りのことも一切が、無になっている瞬間。

 

何も特別なことをしていないのに、何かを得たわけでもないのに、満足で満たされている瞬間。

 

 

そんな瞬間は、誰もが体験しています。

 

その瞬間が、24時間、365日。持続している状態が、自我の世界から脱出している状態なのではないかと、今のわたしは、そう思っています。

 

 

 

 

 

上矢印

先月の24日に出版された、わたしが書いた本です。

 

第一章は、息子の発病から亡くなるまで。

第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。

第三章以降は、こころのしくみを書いています。

半年前に書いた原稿で、まだまだ幼かったわたしがいますが、ご興味がある方は読んでいただけたらと思います。